月曜日, 12月 17, 2007

「貧困の光景」-曽野綾子

先日は、ガーナの歴史について少し紹介しました。

今年独立50周年を迎えたガーナは、ここ数年の官から民への機能移管が
進んだ結果、経済成長し、教育に力が入るようになって、国全体に
活気が生まれてきていました。

翻って日本を見ると、社会の先行きに一抹の不安や不透明さを
感じてしまうのですが、
それは子供たちの学力低下、これに連動する心の教育の喪失から
くるものです。

一時的な知識詰め込みの教育の限界が、社会の諸々に現れてきており、
左脳偏りによる想像性が欠如したビジョンなき国の行く末が危惧されます。


曽野綾子さんはかつて次のようなことを言われたことがあるそうです。
 「アフリカには、生まれてこの方、
  平和というものをまだ一度も見たことがない人がいるんです。
  だから平和というものを想像することもできない。
  人間、見たこともないものは望むことはできないんです。
  そうじゃありませんか、ミセス曽野」
  (「貧困の光景」新潮社 より)


平和に恵まれ、物質文明の恩恵を大きく享受してきた日本人の
平和の有り難さとこれを支えているものに対する想像力の欠如。
これとは別の極にあるアフリカの戦乱に生きる人々が持てない
平和の想像。

世界の多くの国・場所で貧困という現実を様々に見てこられた
曽野さんの言葉を借りて、その実情を紹介します。

”食べるものがない、という人々の現実に関して、
 我々はほとんど無知だといってよい。
 初めに私は、貧困の定義を示しておこう。
 「貧困とは、その日、食べるものがない状態」を言う。

 貧困から来る飢餓には、解決のめどが立っていない。
 もともとその人が蓄財もなく特殊技能もなく、
 社会全体がまたどこを見廻しても金も物もないのだから、
 明日まで待てばどこかから食糧の差し入れがあるか、
 生活保護を受けられるようになるかもしれない、
 という期待もない。
 村全体も親戚も皆、ようやっと生きている、というような
 社会である。

 空腹と飢餓とは全く違う。
 空腹は一時的な状況をさすが、飢餓は社会的、経済的、かつ
 継続的状況だ。
 とにかく地域全体に食べ物がない。
 昨日もなかったし、明日も多分ないだろう。
 飢餓は地域全体の瀕死の病状である。
 中央政府も地方自治体も何らこうした飢餓を救済する方法を
 持たない。
 金も物も組織力も、何も持っていない自治体と役人たちなのだ。

 こうした飢餓を救うには、3つの方法しかない。
 空きっ腹をかかえて水でも飲んで寝るか、
 乞食をするか、盗むか、である。

 世界の多くの土地で、乞食は生業である。
 そのような現実も知らず、日本の新聞や出版社は、
 乞食という言葉は差別語だから使うな、と注意してくるところが
 ほとんどである。

 もし今皆が好きな「人道」とか「人権」を考えるなら、
 第一にやるべきことは、それらの現実がある、ということを
 認めることだ。
 だからこういう差別語にこだわる人々は、人道にも人権にも
 そっぽを向いた人たちである。

 
 飢餓地帯でなくとも、アフリカのパーティーでは、人々は
 黙々と食べる。
 会話をしながら食べるということはなく真剣に食べる。
 だから会場のご馳走はあっという間になくなる。
 肉の切り身ならそのまま、男達がポケットに入れて帰るからだ。
 家族思いなのである。
 服が汚れるだろうとか、食べ物にゴミがつくだろうという危惧は
 全く抱かない。

 救いというか、哀れというか、飢餓の子供は、あまり空腹を
 訴えない。
 これは私の予想外のことであった。
 日本のNGOが、彼らに粥状の食べ物を与える場面にもよく
 出会った。
 すると彼らは皿やコップを持ったまま、じっと見つめていたり、
 私たちを眺めたりする。
 つまりあまり食べたくないのに、食べ物を与えられたというふうに
 見えるのだ。

 エチオピアで聞いたもっとも心に残る話は、
 日本人の看護婦さんがマッチ棒のように四肢のやせた子に
 「もうちょっと待ってね。もうすぐ食べ物をあげますからね」
 と言うと、その子は、
 「食べ物はいりませんから、毛布をください」と
 答えたと言う話である。
 臨終が近いのであろう。
 消化の能力ももうとっくに退化して、ただ生命の残り火が
 あまりにも弱くしか燃えないのが辛かったとしか思えない。


 アフリカは暑い所だという先入観が日本人にはある。
 しかし温度を決める要素には土地の高度も大きく影響している。
 
 エチオピアの飢餓の年に私が現地で見たものは、
 飢餓だけでなく寒さに苦しんでいる土地の人たちだった。
 とにかく着るものがないのである。
 
 ある日、ボロボロの服を着た難民の少女が寒がっており、
 日本から送られてきた服をあげることになった。
 少女は10歳か12歳か、栄養状態が悪いし、互いに通じる言葉が
 ないから、聞く方法がない。

 巨大な木箱の中にある服の中から、少女の身体に合いそうなものを
 探した。
 私はその中を見て驚いた。
 そこには山のように服が詰め込まれていたが、貧しい少女にとって
 着心地のいいような実質的な服(Tシャツとか木綿のブラウス、
 ジーパン、ウールのカーディガンとか)はほんの僅かしかなかった。

 ほとんどは、女性用のスーツや子供のパーティドレスなどが
 信じられないほど多かった。
 
 日本人は難民救済に、自分の要らないものを捨てる代わりに
 送り出したのだ。
 自分の家でも始末に困るようなものを救援物資にすれば、
 厄介払いができる上に、何か人道的なことをしたような気分に
 なれる。

 エチオピアは物資に貧しく、日本は精神に貧しかった。
 せいぜい好意的に見ても、エチオピアの政治家は自国民を
 まともに食べさせるという基本的な能力において貧しく、
 日本人は貧困とはいかなるものかという客観的知識において
 貧しかった。
 どちらも貧しいことにかけてはいい勝負であった。

 貧しい暮らし、とは、つまり自然に抗することのない暮らしのこと
 である。
 雨が降れば洪水になり、日照りが続けば人々は日射病で死に、
 稲も野菜も枯死する。
 それは無策な社会構造だ。

 進歩した社会は、自然に抗して自然を制御するか、
 少なくとも調和するように自分と自然を欺く。

 しかし今日の日本の自然信奉者たちは、全くの手つかずの自然が
 いいと言う。
 しかしそう主張する人々は、最近の洪水や地震の頻発に遭うと
 なぜか沈黙してしまう。

 そういう人たちに私は言いたい。
 エチオピアの手つかずの自然は、人々を飢え死にさせるほど
 すばらしかったんですよ、
 というのがその言葉だ。"



この本の帯書きには、以下のような言葉が書かれています。

「ほんとうの「貧しさ」を知らない
 日本人の
 精神の「貧しさ」を問う」


実に本質を鋭く突いている言葉です。


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月曜日, 12月 10, 2007

「サンコファ(過去を現在や未来の糧として)~ガーナの歴史」-☆森のクマさん☆

2003年12月に初のアフリカ、ガーナの地を踏んでから 4年振りとなった今回のガーナ訪問。
(滞在11月25日~12月1日)

社会、政治、自然、伝統文化が日本とは全く異なるこの西アフリカの地は、
一歩足を踏み入れるとその異質さや多様な表情に深く魅せられます。

久しぶりに訪れた現地のNGO事務所では、
"アクワバ" 「おかえりなさい」という挨拶で暖かく迎えられました。

ガーナの持つ大きな魅力の一つ、それは、ガーナ国民の純正で、
人間的な暖かさです。
今回同行した日本人関係者の方達も、何度もそのことを口にしていました。

それとガーナ人の知的水準はとても高いものです。
53あるアフリカ諸国で大学の先生は、3割がガーナ人だそう。


帰国してから体調が回復してきた中で、2度目のガーナを振り返ると
日を追うごとに様々なことが増えて、頭の中に浮かびます。
「人間の尊厳」というキーワードが頭の中心を占める中で、これに
つながる様々なことを、アフリカの歴史や環境・文化と絡めて
これから日記の中でどのように表現していけるか。

第1回目となる今日は、ガーナの歴史的背景や国の基本的なことなどから
紹介してみましょう。


**********************************

ガーナは今年、独立50周年。
これを祝う横断幕が空港や首都アクラやケープコーストなど 都市の各所で見られた。

ガーナは、サハラ以南のアフリカで最初に独立した国。
独立の記念式典で、ンクルマ(初代大統領)は次の演説を行った。

「今日新しいアフリカが生まれた。    
それは、自らの闘いを引き受け、黒人は自らの問題を自身で解決することが
できるということを世界に示す新しいアフリカだ。  
我々は再び闘いに身を捧げる。  
アフリカ諸国解放の闘いだ。  
我々の独立はアフリカ大陸の完全解放に結びつかなければ無意味なのだ。」

その後、多くの国が独立を果たした。
しかし、多くのアフリカの国は貧困にあり、未だに内戦の銃声は止まず、
疲弊した多くの人々が今日の水と食糧を求めている。

この大陸の過酷な現状は、現在に始まったものではない。
欧州の王侯貴族、商人たちの人間的理性を失った物欲・金欲による
凄惨な強奪劇から生まれ、今日につながっているものなのだ。

かつてこの人類発祥の土地では、豊かな自然に包まれ、豊穣の実りを求めて
日々逞しく生きてきた黒い肌の人々。

幾多の王国が起き、豊かな金と深い森林に覆われた天然資源に恵まれて、
他国との交易を行ってきた。
事実ガーナの地は、1957年3月6日にイギリスの植民地支配下から
独立するまでは黄金海岸と呼ばれていたという。

15世紀に初めて黄金海岸と呼ばれる地域を訪れたヨーロッパ人は
ポルトガルの探検家たち。
この名前は、豊かな金と天然資源に恵まれているこの国を的確に表現している。
(金、ダイアモンド、マンガン、ボーキサイト、鉄鉱石、粘土や塩の  
堆積物などの鉱物資源.様々な種類の高品質熱帯硬材がとれる豊かで広大な森林)

15世紀、ポルトガルは現在のエルミナの地に貿易居住地を築き、
多くの金がこの地域からヨーロッパへ送られた。
16世紀に発展した奴隷貿易は、ヨーロッパの国々の興味をそそった。
デンマーク、イギリス、オランダ、スウェーデンなどのヨーロッパの
君主達は、この国の天然・人的資源を求めて大勢の探検家や商人を送り込む。

彼らはこの国の主権と支配をめぐって争い、交易所としても機能していた
城塞を競って築くようになった。
そのうちに金よりも奴隷貿易の方が儲かるようになり、
一部の城塞は新たに獲得した奴隷を船が到着するまで置いておく場として
利用されるようになった。

19世紀後半には、現地の商人はオランダ人とイギリス人のみになり、
その後オランダが撤退すると、イギリスが黄金海岸を植民地にした。    

ガーナには、欧州諸国がかつてアフリカを植民地統治していた際の  
城と要塞が保存されている。  
アフリカ初訪問の同行者に並んで私も2度目の訪問となったのが、  
そのうちの一つ、ケープコースト城。  
エルミナ城と並んで有名なこの城は、ヨーロッパ人によって  
15世紀に建設された多くの城や要塞の一つ。  

現在は、奴隷貿易の公立博物館となっており、人間が人間に対して  
行った非人間的な行為の証として後世に遺すことを目的にしている。
ポルトガル、オランダ、イギリスと征服者達が変わっていく中で、
元々の交易関係から人間を奴隷として商品にするという非人間的な
所為が行われた城・砦。

ガーナや他のアフリカ各地から何万、何十万人もの人々を繰り返し
連れてきては、インドや北米、中南米に船に乗せ運ぶまでの間、
この城の陽光がまともに当たらぬ真っ暗で冷たい石の部屋に閉じ込めて
いたという。 抵抗したものには鉄のおもりをつけた足かせをはめて
外に置いて、照り続ける強い太陽の元で衰弱させ、あるいは
真っ暗な部屋に 食事も水も一切与えず幽閉していたという。

部屋の中のみだけでなく、異国へ運ばれる船底の中でも、入れられた
アフリカの人々は膝を折り曲げて座らされた姿で何重にも人々が
折り重なった状態となり、用もその場であったという。
当然、異臭・病気が蔓延し、着くまでには相当の人々が病死した。

そして命をなんとか持ちえた人々には、その後縁もゆかりもない
新天地での過酷な重労働が待っていた。  
現在、米国をはじめとしてアフリカ以外の国に住む黒い肌の人々の多くは、
この奴隷貿易による強制移住させられた祖先を持つ人々。  
己のルーツに関心を持ち、アフリカを旅する人が増えつつあるという。


第二次大戦後、急速な政治的変化が起こる。
イギリスは、国家独立運動の盛り上がりを受け、独立国設立に向けて
徐々に政府の自主性を認めるようになる。

イギリス議会は、1957年にガーナ独立条例を制定し、
同年3月6日にガーナ国議会が独立を宣言。
ガーナはンクルマ氏の指導の元に、アフリカの植民地として
はじめての独立を果たす。
1960年にガーナは共和国となった。


********************
◎ガーナの基本情報  

・地勢   
面積は238,537k㎡ (日本の約3分の2)。   
地形は南岸は大西洋・ギニア湾に面し、東にトーゴ、   
西にコートジボヮ-ル共和国、北にブルキナ・ファソといずれも   
仏語圏の国々に囲まれている。
 (これらの国々ではカカオ農園を未だにフランス政府が所有している)  

・気候
 年間を通じ平均27度、平均湿度80%と高温多湿。   
乾季(11月~3月)と雨季(4月から8月)とに分かれる。   
11月~2月には、ハマターンと呼ばれるサハラ砂漠から砂を   
含んだ風が吹き寄せるので、どんよりした埃っぽい日が続く。   
2月から4月は雨も無く太陽が直接照りつける猛暑となる。   
雨季は、湿度はやや高くなり、乾季と比べると気温が下がり、   
凌ぎやすくなる。  

・国旗   
赤、黄、緑の三本の線の上に黒い星をあしらった国旗。   
赤は独立のためにながされた血を、   
黄は金に代表される豊かな鉱物資源を、   
緑は豊かな森林を表し、   
黒い星は植民地支配からのアフリカの独立を象徴している。  

・人口   
ガーナ共和国の人口は約1890万人(2000年国勢調査)   
北部はサバンナ地帯で、カカオ生産には向かず低所得。   
南部は森林地帯が残り、経済的にも発展しつつある。  

・民族   
アシャンティ族(クマシ周辺)、ガ族(アクラ周辺)、   
エヴェ族(ボルタ地域)、ダゴンバ族・マンプルシ族・   
ゴンジャ族(いずれも北部)等、   
100以上の部族が存在するといわれている。  

・宗教   
全人口の約7割がキリスト教、約2割がイスラム教を信仰。   
他に伝統宗教等様々な民族宗教がある。  

・経済   
金、カカオを中心とする貿易や観光が主。   
特にカカオは、ガーナの経済の根幹であり続けている。   
アフリカでは南アフリカ以外の国は、基本的に農業国である。   

・アディンクラ   
伝統的紋様のこと。   
各紋様には意味があり、紋様はその意味にふさわしい場面で使われる。   
鳥が後ろを振り返っているさまをモチーフにした「サンコファ」は   
「戻っていって得よ」という意味で、過去の出来事や経験を学ぶことに
よって現在や未来の糧とせよ、という教訓を意味する。  

・時間(グリニッジ標準時間を採用)   
日本との時差は-9時間


アフリカ大陸中を独立の歓喜で沸かせ、未来への希望の象徴であったガーナ独立。
しかしその後の独立ガーナの歩みは、皮肉にもアフリカ諸国の開発と
国家建設の困難さを見せつける象徴ともなった。

政治混乱と経済停滞の悪循環が続き、幾度かのクーデーターによる軍政。
その後、2000年に選挙による政権交代が初めて行われた。
これは、長期政権であった前政権からの交代が民主的に行われたもので、
ガーナが政治上の大きな試練を経てのものであると評価できる。

独立50周年を迎えたガーナは、同時に新大統領の選挙キャンペーン中 でもあった。
「教育、農業、医療が国の基本」を大事に国の発展を進めてきたクフォー大統領。
民間セクターの活用と行政サポートによる発展が順調に進む中、
海外からの投資も積極的に行われつつある。

一方で拡がりつつある所得格差。
都市部には富裕層と低所得層の生活の違いが顕著に現れてきている。

彼とその後の新大統領が、今後この国の持続的な発展をどう導いていくか
期待している。


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日曜日, 12月 09, 2007

「人間の尊厳~ガーナから帰国して」-☆森のクマさん☆

3日、ガーナより無事帰国しました。

ガーナの気温は、30度。
途中経由のオランダ・アムステルダムは10度。
そして日本・千葉に帰国すると13度。

アムスからの帰り、飛行機ではいつものように狭い機内の席に
眠れず。
幸い、行きの飛行機便とは違い、一席毎にディスプレイ画面が
あったので、映画を3本観て何とか11時間余りを過ごす。

昨日は妻が駅に車で迎えに来てくれて、帰宅後は
ゆっくりお風呂に。
ガーナではインフラの遅れで、外国人用ホテルでさえも
時々断水があり、また水シャワーがほとんどだったので、
本当に幸せな気分に浸れました。

日本にいると当たり前に思えることは、
他国ではとても幸せなことが多いです。

その後、幼稚園から帰ってくる最愛の息子を迎えに。
バスから降りてきた息子は、久しぶりに見る父を
本当に幸せそのものの表情で歓迎してくれました。
私は思い出すたびに会いたかった息子を、しっかりと抱きしめました。

旅の疲れが出て、3日は夜7時頃から今朝の5時半まで寝、
朝8時頃から夕方までもずっと寝ていました。
その後も息子に添い寝しながらまた少し寝てしまいました。
自分でも身体が疲れているのがよくわかります。


ガーナでの話はこれからゆっくりと日記に書いていくつもりです。

4年ぶりとなった今回の視察訪問では、いくつかのことが印象に
残りました。

都市の発展振りに目を見張るものがあり、その分の格差もはっきり
出ています。

一方で私が訪れた持続的なカカオ生産を行っている
農村コミュニティの人々は、プロジェクトに参加したことで、
自然環境を保全しながら収穫があがり生活が確実に
向上していました。
また、これを支える様々な組織や人々の信頼の輪も厚いものと
なっています。

今回、ガーナに行って様々な人々とやりとりを行い、
彼らの人間的なすばらしさにふれながら、
人間の尊厳”という言葉が自分の頭の中で
日毎に強くなっていきました。
この理由は、いずれ日記で書いてゆきます。


明日は、久しぶりの出社。
メールが相当たまっていることでしょう。
ガーナの森や子供たちのことを愛しく想いながら、
頑張ることとしましょう!


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水曜日, 11月 21, 2007

「達磨さんと親しまれた名財政家に東北を想う」-高橋是清

秋時雨が降る日が続く中、今日、
仙台の出張から戻りました。

このところ出張の日々が続いています。
中国からの帰国後、岩手(花巻、北上、盛岡)に行き、
 長野(黒姫)、そして宮城(柴田、仙台)。
 来週は山梨(清里)、
 さらに再来週からは西アフリカのガーナへプロジェクト視察。


仙台には兄の家族が住んでおり、昨夜は新築したばかりの家に
泊まってきました。
岩手でも、宮城でも感じたことですが、私は東北地方に行くと
何か心の落ち着きを感じられます。

かつて星野道夫さんの友人であるボブ・サム氏と
話をする機会を得た際、私は氏との会話を通して、
自分が遥か昔に縄文の時代を生きていたことを知りました。

この縄文の時に、東北の地に生きていたのだと、
そう感じ、血が落ち着く安心感なのでしょう。


先週の「原敬」についてふれた日記でも書きましたが、
東北の地は盛岡に限らず多くの所から、すばらしい先人たちを
輩出してきています。

仙台の地には、「達磨さん」の愛称で、
庶民から親しまれた名財政家であった、高橋是清がいます。


仙台藩の下級武士の養子であった是清は、
幕末にアメリカへ留学していたことがあります。
藩から推薦されてのものでしたが、まだ11歳のときの留学。

アメリカでは留学とは程遠く、知らぬまま奴隷契約書に
サインさせられ、牧童や奴隷としての生活を強いられ、
いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど
の苦労を重ねたのだそうです。

後年、彼は「達磨さん」の愛称をもらいますが、
これは人相と七転八起の人生の両方から来ているものだそう。

明治元年(1868年)帰国するものの、維新後の新政府下では
戊辰戦争にて賊軍とされた仙台藩出身の是清には仕事がなく、
予備校の教師をしていたことがあります。

 ”「語学なんざ、ばかでもできるのだ」
  と、壇上の教師はいった。
  「にわとりがときをつくる。そっくりまねてみろ。
  馬鹿ほどうまいはずだ」
  といった。
  真之は苦笑して「ノボルさんよりもあしのほうがばかか」
  とささやいた。

  教師は、おもしろい男だった。
  この当時の日本人は英語という学科を畏敬し、
  ひどく高度なものにおもいがちであったのを、
  そのようなかたちで水をかけ、
  生徒に語学をなめさせることによって語学への恐怖感を
  とりのぞこうとした。

  教材は、パーレーの「万国史」だった。
  この教師は、一ページをつづけさまに読み、しかるのちに訳し、
  そのあとそのページを生徒に読ませ、もう一度生徒に訳させる。
  後年の語学教授法からみれば単純すぎるほどの教えかたであった。

  教師は、まるい顔をしていた。
  「まるでだるまさんじゃな」と子規がいったことが、
  たまたまこの教師の生涯のあだ名になった。
  教師は、高橋是清といった。”
               引用:「坂の上の雲」司馬遼太郎作


是清は、その後実力が世間に認められるようになり、
やがてその存在が政府の知るところとなります。
明治、大正、昭和の三代を通じての財政家であり、
大正十年には兇刃にたおれた原敬の後任として政友会総裁となり、
総理大臣に信任されます。

しかし何といっても、その生涯の特徴は何度も就いた
大蔵大臣としての業績。

日露戦争前後の日銀副総裁の時には、英国に駐在して戦費調達に奔走し、
苦心のすえ八億二千万円の外債募集に成功。

危機財政の切り抜けに何度も腕をふるい、
昭和9年の経済的な混乱時には乞われて81歳での大蔵大臣に就任。
「達磨さんが出てきたから日本はもう大丈夫だ」といわれたそう。

しかし達磨さんは、昭和11年83歳の時、
インフレを抑えるために軍事予算を縮小しようとしたことが
軍部の恨みを買い、2・26事件で赤坂の自宅にて兇弾に倒れました。
その後、日本は軍部の暴走を誰も止められず、戦争の波に漕ぎ出て
いきます。


是清は、暗さのまったくない人であったそうです。
写真を見ても思いますが非常に明るい感じの人であったのでしょう。
決して愚痴をこぼさず、日本という国を常に第一に考えながら
冷静に己が勤めを大事に果たしていったのでしょう。

司馬さんは、幕末から戊辰にかけてさんざんな目にあわされた
東北の地と人々のことをこう語っています。

「地勢的にも標高の高いところから西方の騒ぎをじっと見つめる。
 そうした余裕、冷静さがあったのでしょうか。
 冷静さというのは、知性ということでしょうね。
 
 その知性について、幕末の東北を考えてみると、
 のんびりしていました。
 西日本の大名があんなに革命化しているというのに、
 東北の大名は情報不足でした。
 結局、戊辰戦争でひどい目にあいました。

 しかしながら、東北人の先進性、スマートさ、ハイカラさを
 考えたときに、江戸中期以後の人文科学的な、あるいは
 自然科学的な思想というものが、東北の思想の中に
 ずっと伝統としてあったのかもしれないと思えてくるのです。


 幕末の英雄、吉田松陰は長州藩の江戸屋敷にいるとき、
 上役の許可が出ないものですから、脱藩して
 東北旅行に行きます。
 
 あとで勘弁してもらうのですが、
 本来脱藩はお家取り潰し、本人は切腹。
 しかし、それほどまでに行きたかった。

 彼は「東北遊日記」という著書に、
 奥州は英雄が出る所だと記しています。
 どういう英雄を指しているのかわかりませんが、
 奥州人の人柄の大きさがイメージとして
 彼の心の中にあったのでしょう。


 東北を一つの僻地として見る見方が伝統的にあります。
 世間にも、東北人自身にもあります。
 これが先入観だと思うのです。

 これを見直す時代がきましたね。
 東北をもっと掘り下げるべきです。
 東北をその独自性から見直す。

 世界史的な大きな目をもち、東北の人文の伝統を
 見直すべきなのです。」


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月曜日, 11月 19, 2007

「標高3700mの展望より持続可能な未来社会を望む(中国・雲南省・三江併流森林生態系保全)③」-☆森のクマさん☆

10月24日(水)
 朝方早く目が覚める。何時だろうと目覚ましに手を伸ばす。
 5時過ぎ、薪を割る音が聞こえてくる。
 おそらく郷長を務めるという張さんの息子の仕事であろう。

 7時に起床し、部屋の外に出る。
 朝の冷気が冷たく感じる。
 家人が気を利かせて、お湯で満たした大きなたらいを
 出してくれる。
 顔を洗うとさっぱり。昨日風呂に入れなかったので、顔を
 洗うだけでも気持ちがいい。
 今日は山小屋泊まりなので、風呂はやはりなしだろう。
 当たり前のように、毎日風呂に入れることの幸せを思う。

 朝食を摂り、9時過ぎに出発。
 これから4時間ほど山の中を歩く予定。
 10時間コースもありますが慣れていないので、こちらの
 コースがいいでしょうと言われる。
 もちろん否はない。
 かつては登山三昧の日を送っていた古き思い出でもあるが、
 現在の会社で働き始めてから早7年。
 暫く登山は無沙汰であったため、久しぶりの山行に不安と期待。

 しかし、張さんの話では、日本人がこの道を歩くのは
 貴方が初めてのはずだと言われて、元気が出る。
 天気は明朗快晴で湿度は高くなく、ちょうどいい陽気。
 しかし11月に入れば雪も降り始めてくるという。

 これから目指す金絲猴の観測ステーションは標高2700m。
 村の標高が2400mほどなので、さほど上がっていくものでは
 ないが、途中々での起伏がかなりあり、また渓流がいくつもある中、
 倒木を向こう側に倒しただけの橋をいくつも越えてゆく。

 針葉樹と広葉樹の混在した見事な森林である。
 途中には民家がぽつんと現れ、なぜこのような人里離れた所で
 暮らしているのだろう。
 生活必需品の買出しの時に最寄の村の売店まで
 歩いて2時間以上かかるような中で生活している老夫婦の人生
 を想った。

 道の途中で幾つもの巨樹を目にする。大人が3人腕をまわして
 ようやく届くほどの幹周と聳え立つ高さ。
 かつて林業の盛んな頃はこのような巨樹が相当切られ、
 市場に出ていった。

 これからこの地域で目指すのは、樹木の伐採ではなく、林産物を
 主にした収入確保である。
 同行の和氏や張さんなどスタッフ達は、零芝やその他の薬用価値の
 高いキノコ、植物の根などを教えてくれる。
 日本でも人気のマツタケも含めて、森林生態系の恩恵を活かしながら
 栽培していく試みも行っているという。
 
 休憩を挟みながら4時間ほど歩き、ようやく金絲猴の観測ステーション
 に到着。
 一足早く着いた村の若者2名が川で野菜を洗い、遅い昼食の準備を
 してくれていた。 
 昼食後、打ち合わせを行い、ゲストルームという隣接の小屋に行く。
 まだ建てられて間もないようであるが、建て付けはあまりよくなく、
 部屋の戸の開閉が難であった。

 夜になると、外では寒気を感じるようになってきた。
 日中と違い、これから温度はマイナスになるという。
 日本から持ってきた防寒着を着込むが、同行のスタッフや村の若者は
 せいぜい1枚上に羽織った程度である。
 ふだんの環境の違いなのだろうが、都会で空調の調整に慣れている
 こちらと彼らの逞しさの開きに自省させられる。
 
 夜10時頃就寝。電気のない真っ暗な部屋で寝袋に潜り込む。
 明日は、朝7時に出発し、標高3700mの展望点に行く。
 1時間半の急峻な登山を想像してか、寝袋の外から入る寒気に顔が
 寒くてかなかなか寝付けなかった。


10月25日(木)
 朝7時前に起床し、まだ真っ暗な中を登山開始。
 気温はマイナス5度。とにかく寒い。
 昨日、張さんが即席でこしらえてくれた竹の杖がとても役に立った。
 想像以上の急で狭く、霜で道が滑りやすく足場の悪い道。
 これから一気に1000mを登るのだ。
 
 息をこらしながら、体を持ち上げては登り、歩く。
 急登を続け、しばらく行くと道の間から周囲の山々が目に入ってきた。
 昇り始めた太陽に照らされて、美しい。
 紅葉の葉が朝日に輝いている。
 苦労したものに与えてくれる天の恵みに深く感謝である。

 美しい山脈の景色に励まされながら歩き続け、ようやく展望点と
 よばれる場所に到着。
 四方八方に広がる老君山の山脈の各山塊の頂上・山容や遠くに
 玉竜雪山も見える。 
 周囲の森林は、見渡すばかりのみごとな原生林。
 ここに金絲猴の群れが生存しているのだという。
 姿は見えねども、彼らの存在を確かに感じた。
 神の恩賜による造形の美。眩しい光と神々しい緑の有り難さ。
 ただひたすらに私は眺めるばかりであった。

 
 この老君山・生態村にて始まった
 森林生態系保全と地域住民の生活向上を目指した
 持続可能な未来社会づくりは、まだ第一歩である。

 しかし、この地をこうして訪れ、多くの関係者に出会う中で
 この土地で生き続けていくことを願う希望と熱意に会い、
 素晴しい大自然に触れることができた。 
 多くの協力者と共に、このプロジェクトは成功への道を歩んで
 いくことであろうと確信した。

10月28日(日)
 8日間に渡る視察を終え帰国。 


「私たちが日々関わる身近な自然の大切さとともに、
 なかなか見ることの出来ない、
 きっと一生行くことの出来ない遠い自然の
 大切さを想うのだ。
 そこにまだ残っているというだけで
 心を豊かにさせる、
 私たちの想像力と関係がある意識の中の
 内なる自然である」 
         星野道夫





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水曜日, 11月 14, 2007

「老子の山と森林渓谷に囲まれて生きてゆく先住民の村(中国・雲南省・三江併流森林生態系保全)②」-☆森のクマさん☆

10月23日(火)
 麗江官房飯店をパジェロにて出発し、一路「老君山」と最奥の村
 「生態村」を目指す。
 市街地を抜け、高山帯の道から山頂に白き雪を持って聳え立つ
 美しき玉竜雪山を見ながら、ひたすら先を目指す。

 かつてこの辺り一帯は、「ナシ古王国」の一部であったという。
 往古栄えていた王国の名残がどこかにないかと考えながら、
 車に揺られて移動を続ける。


 和氏の運転に、私の他に同乗者は麗江植物研究所の女性研究員。
 生態村の所属する郷(県の管轄単位)の役場にて、県の参議院議長や
 各部門部長などと合流し、一緒に「生態村」へ行き、昼食をとり
 懇談を行う。

 ナシ族自治県である国竜県にとって、森林生態系保全と県民の
 生活向上は第一の課題とされている。

 中国では98年6月から8月まで、長江・松花江・嫩江で大洪水が
 発生。この被害は、1666億元と巨額なものとなった。
 
 近年の目覚しい発展の一方で、森林乱伐、草原の出鱈目な放牧、
 魚介類の乱獲により、中国の自然生態系は悪化し続けている。
 持続可能な発展を目指し、北京の中央指導部は環境保全に関する
 一連の措置を発令、人々の環境保全の意識は徐々に高くなりつつ
 あるというが、やはり発展重視の中でどれだけ浸透しているのか
 不明である。
 
 この洪水後、国務院は長江上流の自然林の伐採を禁止する命令と共に、
 「天然林保護プロジェクト」(略称「天保プロジェクト」)を発した。

 雲南省は、その大半を高原と山地で覆われる土地。
 全省の94%は山地、その内の64%が林業用地である。

 60年代から、国家建設のため、林業部と雲南省林業庁は次々に、
 森林伐採、木材加工や輸送を行う林業工業企業を設立。
 70年代末期までに、地方の林業工業や木材加工企業が次々と興り、
 多くの市や県では、林業が基幹産業に発展し、「木材財政」と
 呼ばれるほどとなった。

 伐採禁止、新プロジェクトの発動。
 長江上流域では、これまで伐採に携わっていた人々が、
 植林を行い、保全の担い手に変わった。
 この方策により、中国の森林生態系や資源は保全され、
 長江の水源は維持されることが期待される。

 しかし、森林を生活の糧としてきた多くの人々は、収入が激減し
 生活できる見込みの薄くなった村を若者達は離れ始め、過疎化が
 進みつつある。

 他所から入ってきたものたちによる盗伐、野生動物や
 貴重な薬用植物・キノコの乱獲、なども見られ紛争の目も
 見られ始めている。

 長期的で俯瞰的な視点により、地域住民の生活と
 地元の森林生態系保全とをどのように両立させるのか、
 とても重く大きな課題である。


「生態村」は標高2400メートル程に位置する。
 村の範囲はとても広く、家々は離れて点在し、中には山奥にて
 生活する村人もいる。
 ここの暮らしは、30年ほど前とさほど変わらないのかもしれない。
 ただテレビが入り、映し出されるニュースや番組を通しての
 中国社会の著しい変貌ぶりに村の古老達は驚いていることだろうと
 思った。 

 その夜、私とAGAスタッフなど8名は村の旅館に宿泊。
 旅館といっても、細かく部屋が区切られた2階建ての建物に、
 土床の上にベッドが一つあり豆電球で照らされるだけの
 簡素な部屋の作りである。
 風呂はなく、トイレは外の星空を見ることのできる小屋にあった。

 食事は、離れの家の中。
 ここには懐かしい竈が2つあり、家人が大きな鉄鍋で様々な料理を
 拵えていた。
 家人は5人。家長であり、かつては猟師で現在は内外の研究者
 などを山にガイドする張さんとその妻、村の役人を務める息子夫婦に
 生後まもない可愛い赤ちゃんが居住している。

 張さんはかつて山に入り、金絲猴の猟も行っていたという。
 今は自然環境保全を大事に思い、ガイドをして研修者達に地元の
 森林の生態を説明する役に変わった。
 なぜ変わったのか私は聞いてみた。

 彼はこう語った。
 「かつて金絲猴を狩猟していた頃は、この猿がいくらでも
  山にいるものだと思っていたのです。
  他の動物たちにしても同様でした。

  ところがある時、この村を訪問した外国の研究者に言われたのです。

  「君達が捕っている金絲猴は、野生の生息数は3千頭ほどしか
   いない。雲南省の他、中国の湖北省、陜西省、甘粛省、四川省の
   高山帯などにしか見られず、絶滅がとても危惧されているとても
   貴重な生物なのだ」
と。

 それほど貴重な動物を捕ることに罪悪感を感じた張さんは、
 その後野生動物を保護する側に立場を変え、村での持続的な森林保全に
 協力するリーダーの一人となっている。


 張さんを含めよく働く家人に感心しながら、私はかつて日本でも
 このような素朴な生活が各地で見られていたのだと思いながら、
 社会の本当の豊かさ、人間の本当の幸せを考えさせられた。

 夕食後、焚き火に当たりながらお茶をご馳走になる。
 明日は、山の中をたっぷり4時間歩き、金絲猴の観測ステーションに
 泊まる予定だそうだ。
 老君山の各所に聳えるという巨樹達に思いを寄せながら、
 夜9時頃早々に床につく。


**************** 
「老君山(Laojun-shan Mts.)」
 老子=大上老君の名前を持つこの山は、大理州と麗江地区の境界に
 位置し、標高4,247mを頂点とする山塊で、自然保護区に指定されている。
 
「ナシ古王国」
 雲南、四川、チベットと隣接するある地域に、神秘につつまれた地が
 ある。この地に100年ほど前に踏み込んだ西洋の探検家や学者たちは
 ナシ古王国と呼んだ。
 その都、麗江はチョモランマ山脈の果て、青海・チベット高原の南を
 横断する山脈に沿った「三江併流」内にある。
 壮麗な山や雄大な川が流れ、神韻縹渺とした山々には麗江の大自然霊が
 宿り、ナシ人の勇敢かつ多情な魂を孕んで来たという。


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月曜日, 11月 12, 2007

「平民宰相と呼ばれた偉人に思う」-原敬

11月1日・2日と岩手に出張し、夜帰宅しました。

昨日はグループ会社での打ち合わせで花巻市に入り、
夜はおいしいものとお酒を北上市で楽しみ、
今日は県の社会福祉協議会の依頼で、同じ会社のCSR担当者と
盛岡で講演し、新幹線に乗って帰ってきたところです。

驚いたのは、帰りの東北新幹線を暢気にとらえていて、
前もってチケットを用意せずに駅へ着いてから買おうとした
ところ、みどりの窓口は大勢が行列していて、
新幹線の席予約表を見ると、乗ろうとしていた
18:40分発の”はやて”は満席。

困ったなとその下の”こまち”を見るとわずかに残席がありましたが、
はやてでは盛岡~東京が2時間半乗車に対して、
こまちでは3時間半もかかるのです。
次の19:40発とそれほど変わらないな、家につくのは22時半頃かなと
思いながら、自分の番になり、
窓口で「表示の通り変わりないですか?次のはやてに乗りたいのですが」
と聞いてみると
「ちょうど、キャンセルが出て2席空きました」とのこと。
よかった、これで家に21時半頃に帰れると喜び、帰宅したものです。


ちなみに今日のシンポジウムのテーマは、
「地域の資源を活かして企業が社会に貢献するために」
というものでした。

地域の資源ということで、思い浮かんだのは”人材”です。
岩手一県をもって四国に相当するほどの広さをもつだけでなく、
明治以降の日本における最大の人材輩出県です。

例えば
文学界には石川啄木、宮沢賢治、山口青邨、
政治家では米内光政、後藤新平、斉藤実、原敬、
学問思想では金田一京助、萬鉄五郎、新渡部稲造、など

盛岡は、日本の県庁所在地の中でもっとも美しい町といわれており、
樹木が多く目立ちます。
紅葉を見せている樹林に遠慮しながらコンクリとモルタルの建物が
ひっそりと息づき、郊外を北上川が流れ、岩手山が悠然と立っています。

私はこの地の偉人のうち、原敬という明治政府における最初の
平民宰相であり、旧南部藩という会津と並び、維新において
痛烈な戦後処置を受けた南部藩の義理、人情の厚さをその身に持った
偉大な人物のことを移動の車中で思い浮かべていました。


維新後の処置で、藩首相である楢山佐渡が盛岡北郊の報恩寺で切腹、
処刑された日、原敬は当時14歳。
この寺の塀に近づいて「満眼に悲涙をたたえて歩いた」といいます。

後年、原敬は最後の薩長藩閥内閣の寺内内閣を倒し、
大正7年、最初の政党内閣を立てます。

その前年、盛岡報恩寺で楢山佐渡以下の戊辰戦争殉難者の50年祭を
行い、みずから祭主になり
「戊辰戦争に賊も官もない。政見の違いがあったのみである。
 このことはすでに天下にあきらかであり、
 諸子もって瞑すべし」
という意味の激越な祭文をよみあげたといいます。

その3年後、原敬は兇刃にたおれ、その遺骸は血染めのフロック・コート
と共に盛岡城下に帰ってきました。
戊辰戦争は、原敬の死の帰郷のあたりでようやく終わったのでしょう。
(参考:司馬遼太郎「街道をゆく」)


*********************
 同志相謀り旧南部藩士戊辰殉難者五十年祭本日をもって挙行せらる。

 顧みるに、昔日もまた今日のごとく国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや。

 戊辰戦役は政見の異同のみ。当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり。

 その真相を語るものなり。

 今や国民聖明の澤に浴しこの事実天下に明らかなり。

 諸子もって瞑すべし。

 余たまたま郷にありこの祭典に列するの栄を荷う。

 すなわち赤誠を披瀝して諸子の霊に告ぐ。

    大正6年9月8日         旧藩の一人 原  敬


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土曜日, 11月 03, 2007

「強き思いと高き志は、いつしか持続可能な社会を創りあげる(中国・雲南省・三江併流森林生態系保全)①」-☆森のクマさん☆

「世界の霊長類の約3割が、絶滅の危機に直面している」  
IUCN(国際自然保護連合)の報告

21日から雲南省の昆明経由で麗江市に広がる世界自然遺産、
三江併流の森林生態系保全プロジェクト視察の旅から 昨日(28日)帰国し、
休養をとっていた中で目にしたニュース。

この報告によれば、 「現在394種が確認されている霊長類のうち114種が、  
深刻な森林破壊、違法な狩猟、ペット目的の捕獲、地球温暖化などの  
原因で、絶滅の恐れがあると指摘。  
特にアジアが深刻で、絶滅が心配される上位リスト25種中11種が、  
アジアに生息する霊長類。  ゴリラやオランウータンなど世界の霊長類の
約3割が絶滅の危機に直面している」。

人類を除く霊長類にとって、地球環境の悪化は危機的な事態にまで
進行しているのです。
彼らの生息域である森林の劣化・減少が原因であり、 私たち人間の
活動によるものとの認識に胸が痛みます。

****************************

私が今回訪問した中国南西部の雲南省麗江市に広がる世界自然遺産、
三江併流。
このうち主なプロジェクト活動場所は、老君山地域や文筆山。
現地には、キンシコウ(金絲猴)という霊長類が生息していますが、
IUCNのレッドリストでは「絶滅の危険が増大している種」、 「絶滅危惧II類」に
分類されているとても貴重な生物です。

このキンシコウを含めて、様々な生物たちが生息する三江併流は、
「生物多様性の宝庫」と呼ばれ、世界自然遺産に登録されています。

****************

21日(日)
羽田から関空へ行き、約4時間のフライト。  
夜9時半頃、省都昆明の空港に到着。外は小雨混じりの天気。  
迎えの車に乗り込み、3車線を持つ無料の高速道路を走りながら  
初めて見る中国の夜の町並みを珍しく眺めていました。  

ホテルでチェックインし部屋に入り、翌朝早いので早々に床につきました。  
が・・・明日からの7日間、現場訪問し、関係者との交流や打ち合わせと
様々に予定されているスケジュールと初の中国に少し興奮してか、
しばらく寝付けない夜でした。

翌朝(22日(月))、目覚ましに気づき起床時間の6時と思いきや  
テレビをつけると5時の表示が・・・  
日本から持っていった目覚まし時計が電波時計であった為、  
前夜時刻調整して1時間前にしておいたのが元に戻って日本時間に  
なっていたのです。  
6時に朝食をとった後、現地関係者の車で空港へ。  
今朝も小雨模様。  

車内で、同乗のパートナー組織である  「アジア緑色文化国際交流
促進会(AGA)」の和代表に 「私は晴れ男だから、これからきっと
晴れてきますよ」と宣言。  これが見事に当たり!  

麗江に着いてから聞いてみると、前日まで10日間ずっと雨が  
降り続いていたのだそう。  
「雨降って、地固まる」、今回の視察も成功するように思えました。  

8時の飛行機で麗江空港へ移動、9時頃着。  
迎えに来ていたパジェロに乗り込み、市街地へ移動。  
中国では、助手席に主賓が乗るものだと言われて、以後  
ここが私の定席となりました。  

麗江市の標高は約2,400m。  
古い黒ずんだ瓦に白い土壁の家という古い町並みと、あちこちで  
開発された高層マンションという新しい町並みとの同居が見られます。    

1996年、M7という大地震に襲われますが、旧市街の木造家屋は  
瓦や土壁が落ちたものの、柱などの構造体にはほとんど被害がなかったそうで、
ほぼ1年で復興したのだとか。  

日本の古い寺社建築、例えば法隆寺が有名なものですが、  
それと同じように釘を使わずに組み立てられていたそうで、先人の  
自然を活かした技術力の技の立証といえます。  

97年、世界文化遺産に登録された旧市街の麗江古城は、  
名峰、玉龍雪山から伏流水を引き込んだ水路が市街のあちこちに  
張り巡らされ、冷たい澄んだ水が流れています。  
これに沿って石畳の細い路地が並び、周囲には昔ながら古い家屋が  
軒を接して建ち並び、古香古色、中国の古い建築物ばかりです。  

路面は麗江で生産した五花石が敷きつめられ、雨季は泥が無く、  
乾季は塵が無いそうです。  
城内には明清時代の石橋や石の鳥居が多くあり、  
古城は中心から四方に延び、大通りと路地は秩序よく並んでいます。    

昼間の文筆山での森林観察などを終え、夕方歓迎宴での乾杯  
(聞いてみると50度だという強い老酒)を頑張ってこなし、  
その後、夜の古城を少々千鳥足になり、案内を受けながら  
素晴らしい世界遺産の町並みを楽しむことができました。  

この麗江の地には、自然遺産の「三江併流」、  
文化遺産の「麗江古城」がありますが、実はもう一つの  
世界遺産を持っています。  
それは、世界記憶遺産であるトンパ文字。    

世界記憶遺産は、あまり知られていないのですが、  
危機に瀕した歴史的価値の高い記録遺産を最新デジタル技術を  
駆使して保全し、研究者や一般人に広く公開することを目的とした  
ユネスコの事業。  

トンパ文字またはトンバ文字(東巴文)とは、中国のチベット東部や  
雲南省北部に住む少数民族の一つ、納西(ナシ)族に伝わる、  
象形文字の一種。  
ナシ語の表記に用い、約1400の単字からなり語彙は豊富。  
現在、世界で唯一の「生きた象形文字」とされています。  

実は今回同行していただいた和さんも、納西族出身。  
かつて国内で日本語を学ばれ、苦労されて日本に留学し、  
日本に来てからも苦労と努力の中で東大に入り博士号をとられた  
素晴らしい方です。  
納西族であることに誇りをもち、地元の麗江に貢献したいと強く願っています。  

現在は、中国の科学者の最高機関である中国科学院の研究者として  
勤務されながらAGAの代表も勤められている親日家です。  
彼の夢は、地元の麗江において、生物多様性保全を柱とした地域社会の  
持続可能な循環型共生社会を創りあげていくこと。  

中国国内同様に、格差が大きく広がりつつある麗江の都市部と農村部に  
おいて人々が自然環境に対して恩恵の気持ちを持ち、  
各々が無理なく関わりながらこの社会創りに喜んで参加していくこと。  

私と同い年であり、同じ方向での夢・ビジョンを持つ彼の強い思いと  
志の高さに、何度も感心させられながらの視察となりました。


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水曜日, 10月 10, 2007

「清明なる秋野にて息子と共に生命の多様さを感じる」-☆森のクマさん☆

10月に入り、朝晩に秋涼たる気を感じるようになりました。

先日の連休は、息子と共に秋の自然を見に、自転車に乗って
あちら此方へと出かけ、
様々な自然の姿を感じることができました。

田圃の側を走り、刈り取りが終わった田に
稲穂が干された姿を見る一方で、
これから収穫を行う田には案山子の姿と
群れて訪れる稲雀の姿を
見ることができました。

秋の自然は、身近な場所においても、
実に静かで奥深い様を見せてくれます。

今日遊びに訪れた農業公園は、
この時期コスモスの花が一面に広がる畑が
多くの人を楽しませていました。

一方で道端に目を向けると、
多くの人が見向きもせず気がつかない中に、
ひっそりと小さな花を咲かせる、
アキチョウジ、アキノタムラソウ、ノコンギク、イヌタデ、
ムラサキシキブ、ノハラアザミ、アキノエノコログサ、
などの姿を見ることができました。

花より虫に関心のある息子は、
夏から使っているお気に入りの携帯虫籠をたすき掛けにして、
草原の中を意気揚々と秋の虫を探しています。

すると、秋に生を謳歌する様々な虫たちの姿が。
スズムシ、ハヤシノウマオイ、マツムシ、エンマコオロギ、
キリギリスといった夜長にきれいな音を奏でている虫たち。

他にもトノサマバッタ、ショウリョウバッタ、オンブバッタ、
オオカマキリ、アキアカネ、ノシメトンボ、シオカラトンボ、など。

秋の野は、春の華やかな装いとは趣の異なる、
静かに色や形を主張する草花や虫たちの姿を見せてくれます。

息子が携帯していた虫籠の中には、手にとって記念写真を撮ると
すぐに放してあげた虫たちに代わって、ドングリ類や木の実の
お土産が入っています。

息子は、布団に入り寝るまでの間、今日会った虫たちの名前を
繰り返し復唱していました。
夏の虫たちとは異なる姿形に、多様性の魅力を感じたことでしょう。

この2日間、身近に在るちょっとした自然の中に息子と入り、
薄暮になるまで秋の野に生命の多様性の素晴らしさを楽しみました。


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日曜日, 10月 07, 2007

「私たちの生命を支える生物多様性を守ること」②-☆森のクマさん☆

前回の日記では 「地球時計」から見る生命を作り上げた
地球の歴史を紹介しました。

地球が育んできた生命の輪を、一番後から誕生した私たち人類が
絶滅させてしまっているという現実。

「人類は決して自分達一種だけでは生きていけない。  
他の多くの生物たちに支えられて生きている。」

ということに反した行動をとっている私たち。

とかく人間は、人工的な環境に囲まれていればいるほど、
自然との距離が離れ、人間中心、自分中心で物事を考えるようになってしまい、
操作主義に陥っていきがちです。
この操作主義は、私たち人間は自分たちだけで生きているという錯覚を持ち、
何事も全て人間の科学文明で処理・対応できるとの危うい感覚をもたらします。

私たちの周りが都市化すればするほど、世界が本当はどのように機能しているのかを
忘れてしまいます。
たとえば東京で、「食べ物がどこで育っているか知っていますか?」
「水はどこから来ているか知っていますか?」 「トイレから流れた水がどこに
行くか知っていますか?」
と聞いても、多くの大人も子供も知らない人が多いでしょう。

しかし、先に示したように厳然たる事実があります。
私たちはこの地球上の何千万もの生物種のうちの、
たった一つの種にすぎないという事実。

私たちが食べている食糧のひとつひとつ、
私たちが飲んでいる水の一滴一滴、
私たちが呼吸している空気の一呼吸一呼吸が、
生物の多様性のおかげで、私たち人間に与えられている。

私たちのために空気を浄化し、食べ物を与えてくれるのは技術ではなく、
自然の中の多様な生物なのです。

生物の活動によって、物質やエネルギーが休むことなく循環されています。

この地球という青き惑星に生きる全ての生き物たちは、
私たちにとってかけがえのない存在。

私たちの存在は、他の生き物達の健全な存在と活動に完全に頼っています。

地球に住む他の生き物たちは、威厳ある美が宿っています。
この美を感じるように努めながら、
人間の手によって滅びつつある生き物達を救うこと。

それは、人間自身がこれからも生き続けていく上で
行わなければならないことです。

なぜなら、彼らなしには、私たちは生きていけないのですから。
地球上にたくさんの種類の生物がいるから、地球の生命力が保たれているのです。


これからの私たちに求められること。

目先の利益でなく、長い目でみた行く末に焦点をあてることが大切です。

地球をどうにかしようという操作的な考えではなく、
私たち自身を変えていくことが大切です。

私たちの考え方を、人間中心から地球中心に変えること。

生態系から与えられた恩恵に感謝し、与えられたものを謙虚にやりとりしながら、
地球の一部として生活すること。

モノに踊らされず、こころを大切にすること。

本当の幸せを求めること。

分かち合うこと。

未来の世代のことを考え、未来がよりよくなるようにこころがけていくこと。


他人ごとではなく、私たちひとりひとりの意識向上と行動が求められています。


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日曜日, 9月 30, 2007

「私たちの生命を支える生物多様性を守ること」-☆森のクマさん☆

現在、 「第三次生物多様性国家戦略案」について、
環境省が意見募集を行っており、私も仕事柄、この戦略案に関心を持って
内容を見始めているところです。

残念ながら一般の方にはあまり知られていない
この「生物多様性国家戦略」は、92年にブラジル・リオで開催された
「地球サミット」にて作られた「生物多様性条約」に沿って
日本国は95年に策定しました。
(この条約は、世界の189ヶ国が参加。米国は不参加)

「生物多様性国家戦略」は、
私たちの子孫の代になっても、生物多様性の恵みを受け取ることが出来るように、
生物多様性の保全と持続可能な利用に関する基本方針と国のとるべき施策の
方向を定めています。
施策の実施状況について毎年点検を行うとともに、
概ね5年程度を目途に見直しを行うことが規定されており、
今回もこれに従って行われているもので、今回の意見募集は
10月14日までとなっています。
詳細はこちらに載っています。  
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=8794

「生物多様性条約」は、同じくリオ・サミットの後に定められた
「気候変動防止枠組み条約」との認知の差があまりにも大きいものです。

これは温暖化防止の場合、このまま温度が上がればどんな影響が出るかという
データが多く出るようになったことと自分達が防止のために何をできるのかと
いうことがわかりやすいということにあります。

一方で、生物多様性保全の場合は、同じく認知の低い「生態系」との関係や違いが
わかりにくく、構造や悪化した場合の影響があまりにも複雑で簡単につかみにくいことから、
残念ながら 馴染みの薄いものとなっています。

「生物多様性」、「生態系」という地球上の多様な生命が太古の歴史から
織り上げてきた壮大で緻密な仕組みと関係。

この仕組み、関係を多くの方に理解してもらい、自分達ができることを考えてもらい、
実際の行動をとってもらうように。

ささやかかもしれませんが、私なりにチャレンジしていきたいと思います。

まずは、地球の歴史と生命の誕生の時間の把握から。


********************

☆「地球時計」から見る生命を作り上げた地球の歴史☆

地球は、今から約46億年前にできたといわれています。
最初の生命が誕生したのは、約40億年前といわれ、海中に現れた生物は
4億年前になるまで陸に上がることはできませんでした。
宇宙から強力な紫外線が降り注いでおり、これを遮るオゾン層が作られるまで、
長い時間を要しました。

その長い間、海中の植物は、海中の二酸化炭素と太陽光線から酸素を作り始め、
その酸素が大気中に放出され、オゾン層を作っていたのです。
こうして生物は自身の力によって、上陸できる環境を整えました。

最初に陸に上がった植物は、湿地や草原、森林を作りました。
それを追うように動物も陸上へ進出、
両生類、爬虫類へと進化し、やがて恐竜が現れました。
恐竜が地球の支配者となった後、ネズミくらいの大きさの哺乳類も現れました。

約6500年前、ある説によれば隕石の衝突によって大気中に舞い上がった
塵が太陽光を遮り、地球の気温が下がり、恐竜など多くの生物が環境の変化に
ついていけず絶滅しました。
哺乳類の一部は生き延びました。

その後、進化して様々な種類に分かれ、猿人と呼ばれる人類の祖先が
500万年前から400万年前に登場し、こうして私たちにつながっています。

******************
この長い地球の歴史を「地球時計」に置き換えてみます。
これは46億年を1年に圧縮するものです。  

1月 1日00時00分 地球の誕生  
1月 8日     海洋の誕生  
2月15日     海中に最初の生命誕生
11月30日     生命が陸上に進出
12月15日     恐竜の誕生
12月31日16時00分 猿人の誕生       
23時58分 新人(私たち人類の最初の祖先)誕生    
        

*******************

地球の歴史において新参者の人類。
一方で、私たちは多くの生物を絶滅させています。

人類が知っている生物は200万種程度でしかありませんが、
地球上には私たちが知らない生物を含めると5000万種から1億種が
生息していると推定されています。

しかし、現在、地球上では15分に1種の生物が絶滅しているといわれています。
1年間の換算では、3万5千種の絶滅。

地球が育んできた生命の輪を、一番後から誕生した
私たち人類が絶滅させていくという現実。

地球の持つ生態系という生命システムを破壊していくことは、
私たち自身の未来を閉じるということです。

人類は決して自分達一種だけでは生きていけない。
他の多くの生物たちに支えられて、生きています。

そのことに多くの方が気づき、「生物多様性」の大事さを
自分の生命、他者の生命、未来に生まれてくる子孫たちの生命の
大事さとつなげて考え、これを守る行動が広がることを願っています。


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月曜日, 9月 24, 2007

「筑波の紫峰を息子と歩いて」-☆森のクマさん☆

昨日は、息子と二人で筑波山に行ってきました。

常陸の平野の真ん中に立つ筑波山は、
よく晴れた日には千葉にある我家の方からも仰ぎ見ることが
できる大好きな山です。

万葉集に「二神の貴き御山と神代より人の言い継ぎ」と詠まれ、
「雪の富士、紫の筑波」と古来より人々に尊ばれてきた霊山。

頂上のニ峰並立を昔から男神女神として崇められ、
東峰の女体山(877m)にイザナミノ命、西峰の男体山(871m)に
イザナギノ命が山頂磐座に祀られてきました。


つくばエクスプレスに乗ってつくば駅に着き、
そこからシャトルバスに乗り換えて計1時間。
筑波山神社入り口でバスを下り、そこから少し歩くと
神社に到着。
筑波山神社には本殿なく、山を背後に拝殿が建っており、
筑波山本体が御神体です。


1年ほど前に義妹の登山アドバイスをしに筑波の山道を
登りましたが、今回は4歳の息子には登山はまだ早いかなと
ケーブルカーで西峰山頂へ。

すると途中で登山している人を見た息子が
「今度来たときは山登りをしようかな」と言いました。

山頂に着くと、辺り一面靄が立ちこめ霧雨の悪天候。

レインパーカーと帽子を持ち、運動靴も履いてきていたので、
「山歩きに挑戦する?」と聞いてみると、
「うん、歩いてみる」との息子の答え。

そこで、西峰山頂から東峰山頂へ至る山道を歩くことに
しました。

白い靄と小雨に周囲が覆われる中、大小の石がある
ゴツゴツした道を滑らないよう歩いていきました。

途中、ミズナラやブナの巨木が立っており、
その都度息子に教えてやると、前から図鑑で見て
馴染みのあった樹木であったので直に見ることができて、
喜んでいました。

「この森ならきっと木霊(こだま)がいると思うよ」というと、
息子は「ここはいい森なんだね。木霊に会いたいな」と。
山の霊気を浴びて、息子も楽しそうに山歩きです。

しばらく行くと、西峰山頂へ到達。
社をお参りし、無事山頂の上で記念撮影。
ミニ山歩きといえども初の登頂は、息子の記念になりました。

私は、かつて7年ほど前までは、富士山、北岳や北海道、屋久島
など各地の山をテントと食糧を担ぎながら登ったものです。
ですが、ここしばらくは長いブランクを空けていました。

息子と歩いた今日の筑波山のミニ登山。

山頂を目指して友人達とガンガン歩いていた頃の登山とは
違う山歩きの楽しさを感じました。

一人でなく家族で自然を親しむ山歩きの楽しさ。
これから少しづついろんな自然をまわり、一緒に楽しんで
いきたいなと願っています。


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月曜日, 9月 17, 2007

「いまここに生きることの価値」-岸 岩夫、村上和雄

連休に入っての2日間は、父の見舞いに行っていました。

先週水曜日、父は心臓手術をしました。
これは数週間ほど前に精密ドックに入ったところ、
心臓の周りの冠動脈が硬化しているとのことで、このままでは
心筋梗塞になる可能性が高いとのことから行ったものでした。

その夜、母に電話して結果を聞いたところ、
硬化していた冠動脈に手術が施されたが、経過は良いので
大丈夫だろうとのことで、とりあえず安心しました。  

 <心筋梗塞>   
  心臓は心筋を収縮させることで新鮮な酸素と栄養を含んだ   
  血液を全身に循環させています。こうして生命を維持していますが、
  その心筋もまた心臓を取り囲んでいる冠状動脈より、酸素と栄養を
  供給してもらい動いています。   
  その動脈が何らかの原因で障害が起きて、狭窄や閉塞を生じることを
  狭心症、心筋梗塞といいます。


休みに入った土曜日、父が入院している病院へ見舞いに行きました。
術後数日が立っている父は、顔色もよくふだんと変わらない感じでしたが、
手術の話を聞いて驚いてしまいました。

父が施されたのは、コレステロールにより狭くなってしまった
冠動脈の1本に、十分な血液が流れるように内科的治療である「ステント法」
でした。
この方法は、カテーテルを使い、詰まっている部分にステントという網状の器具を
冠動脈に送り込み、血流をよくするというもの。

私が驚かされたのは、父の冠動脈のうち、ある箇所で既に血管が詰まるという
心筋梗塞の状態になっていたそうなのです。
普通であれば、その時点で血流が止まり、即手術を施す必要があります。
(父は以前に胸の痛みや気分の悪さをひどく感じたという時期があるとのことで、
 その時が詰まった状態の時だったのだろうと言っていました)

ところが、不思議なことにその梗塞になった箇所をバイパスする 形で、
新しい血管が動脈に生まれ、この血管が血流させる役割を担っていることが、
今回の手術をしてみてわかったというのです。

私はこの人体が持つ不思議な再生能力に興味を持ちました。
帰宅後に知ったことは、次のようなことでした。

「自家末梢血血管内皮前駆細胞(CD34陽性細胞)という血管の幹細胞が
 人体の骨髄や血液中に存在する。  
 この細胞は、血管の閉塞した臓器や組織に注入されると血管を形成する細胞に
 なる能力がある。  
 血管の閉塞した心臓にこの幹細胞を注射することによって、  
 新しい血管がつくりだされ(血管再生)、血流が改善し臓器機能が回復する。」

外科手術でこの血液を新しく作り出す働きをもつCD34陽性細胞を注入するそうなのですが、
父の場合は自力でこの細胞が働き、血管再生が行われていたのです。
生命の持つ自己治癒力をはっきりと認識しました。

そして、この22日に人生70年を迎える父は、今回の手術が生まれて
初めての入院というもので、生命力の強さをあらためて感じました。


この生命力の素晴らしさについて、遺伝子学者の村上和雄先生はこう語られています。

「遺伝子の世界を見ていると、私たちが生きて存在していること自体が、  
 驚異的なことに思われてきます。  

 私たちは約60兆個の細胞の集合体です。  
 細胞が集まって高度な秩序をもつ器官や臓器をかたちづくっています。    

 たとえば腎臓の一個の細胞を見ると、腎臓の役割をはたすためだけの遺伝子が  
 ONになっていると同時に、腎臓という臓器の一部を形成し、
 さらにほかの細胞と協力して、腎臓という臓器全体を成り立たせています。  

 これは会社勤めのサラリーマンのようなもので、  
 一人の社員は会社の営みの一部分を担っていますが、  
 会社に隷属しきっているわけではありません。
 彼には個人的な生活もあります。  

 細胞も同様で、腎臓の細胞でありながら、それ自身に個性があり、  
 臓器の中で自主的、選択的に働いているのです。  

 これは部分である細胞が、全体としての性質も備えていることを意味します。  

 これらのことは、細胞と臓器の関係だけでなく、  
 人間と社会、人間と地球、ひいては人間と宇宙との関係についても  
 言えるのではないでしょうか。  

 私たち人間は、一人の人間でありながら、  
 全体としては宇宙の一部であるということです。  

 そう考えると、いまここに生きていられるだけでも  
 価値のある、ありがたいものだと思われてきます。  

 中にはそう思わない人もいるかもしれませんが、  
 そう思ったほうが楽しいじゃないですか。  

 そして、感謝して生きるとは、そう思って生きることにほかならないのです。」


父は今月迎える誕生日を境に、経営の第一線から退き、兄に後事を託します。
昔から、父が欠かさず毎朝恒例にしてきたこと。
神棚に水を供え、手を合わせ、大宇宙の神に祈る、ということ。
「自分の全身全霊を生ききるように」と祈っているのだと、
いつか教えてくれたことがあります。

同じ遺伝子を受け継いだものとして、恥じぬように 私も生きていこうと思います。


◎「日環エンジニアリング株式会社」  http://www.nikkan-ks.com/index.htm


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日曜日, 9月 09, 2007

「長月に入りて、心で囁き心に呟く」-☆森のクマさん☆

9月に入ってからすっかり涼しく感じる日がつづいており、
秋の気配を感じることが少しずつ増えてきました。

例年であれば、残暑が未だ感じられるのですが、
このまま秋に 入っていくのではと感じるような一気の風の変わり様です。

・夏の風から秋の風に変わり、  
 駅のホームで扇子を扇がなくてもよいようになりました。
・田圃の稲に黄金色になりつつあり、熟してきた稲の姿を  
 見られるようになりました。
・日没の時間が早くなり、夜の長さを徐々に感じるようになりました。
・しばらく前は夜でも盛んに鳴いていたセミの鳴き声は聞こえなくなり、
 代わりに秋の虫たちの鳴き声が静かに聞こえています。


9月は「長月」。
心で囁き、心に呟く夜長の時と古来から言われてきました。
秋の気配にある”気配”とは、気が一面に伸び広がり、
外見では見えないものを 聴覚や直感など感覚的にとらえた様をいいます。

森や野原を息子と歩いている中で目にした、
秋への移ろいに備えつつある自然の姿。

樹木は、葉を徐々に紅葉へと変えてゆき、団栗の実を大きくしながら
緑から茶へと色を変えてゆきます。

草の葉には露が宿り、朝に夕に白く光って目につくように なります。

こちらが秋の気配を感じようと努めてみることで、
見えてくる自然の中での生の営み。

私は、思わずそっと息子に囁きました。
「あ々、自然の生き物たちは、  
 其の身を取り巻く環境の移り変わりの中で、  
 かようにも生命を最大限に謳歌させようとしているのだよ」と。

その晩、秋への移ろいが感じられつつ中、
過ぎ行く夏を惜しんで父と母と三人で行ったささやかな花火を、
息子は楽しそうに嬉しそうに興じてくれました。


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日曜日, 9月 02, 2007

精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、はじめて人間は創られる-サン=テグジュぺリ

サン=テグジュぺリ、
「星の王子さま」の作者である彼は、職業飛行家でもあり、
15年間の飛行家としての日々の中で、砂漠の不時着以外にも
いくつもの困難に遭遇し、その度に自身の持つ強靭な意志で
打ち勝ってきました。

彼は、この飛行家という職業を通して大自然と接触し、自我を
深く掘り下げ、人間の真実の発見に努めました。


「ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。
 
 理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。
 人間というのは、障害物に対して戦う場合に、
 はじめて実力を発揮するものなのだ。

 もっとも障害物を征服するには、人間に、道具が必要だ。
 人間には、鉋は必要だったり、鋤が必要だったりする。
 
 農夫は、耕作している間に、いつか少しづつ自然の秘密を
 探っている結果になるのだが、こうして引き出したもので
 あればこそ、はじめてその真実その本然が、
 世界共通のものたりうるわけだ。

 これと同じように、定期航空の道具、飛行機が、
 人間を昔からのあらゆる未解決問題の解決に参加させる
 結果になる。


 ぼくは、アルゼンチンにおける自分の最初の夜間飛行の
 晩の景観を、いま目のあたりに見る心地がする。
 それは、星かげのように、平野のそこここに、
 ともしびばかりが輝く暗夜だった。

 あのともしびの一つ一つは、見渡すかぎり一面の大海原の
 中にも、なお人間の心という奇跡が存在することを
 示していた。

 あの一軒では、読書したり、思索したり、打明け話をしたり、
 この一軒では、空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に
 関する計算に没頭しているかもしれなかった。
 またかしこの家では、人は愛しているかもしれなかった。

 それぞれの糧を求めて、それらのともしびは、
 山野の間にぽつりぽつりと光っていた。

 中には、詩人の、教師の、大工さんのともしびと思しい、
 いともつつましやかなのも認められた。

 しかしまた他方、これらの生きた星々のあいだにまじって、
 閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々がなんと
 おびただしく存在することだろう・・・


 努めなければならないのは、自分を完成することだ。

 試みなければならないのは、山野の間にぽつりぽつりと
 光っているあのともしびたちと、心を通じ合うことだ。

 
 たとえ、どんなにそれが小さかろうと、
 ぼくらが自分達の役割を認識したとき、
 はじめてぼくらは、幸福になるうる。

 そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことが
 できる。
 なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも
 意味を与えるはずだから。

 ”精神の風が、粘土の上を吹いてこそ、
             はじめて人間は創られる。”」
 

自分の生まれてきた意味を知り、
自分の役割を果たしていくことが大事なことなのですよね。


***********
アントワーヌ・ド・サン=テグジュぺリ

1900年6月29日フランスのリオン市に生まれ、
1944年7月31日、フランス解放戦争に従軍中、偵察を目的に
単身ライトニング機に搭乗、飛び立ったまま、
地中海上で行方不明となった。
ナチスの戦闘機隊と遭遇し、多勢に無勢、撃墜されたものと
信じられている。


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金曜日, 8月 17, 2007

「愛に包まれてきたことへの大きな感謝」-☆森のクマさん☆

15日は62回目の終戦記念日でしたね。
戦没で亡くなられた方たちを追悼すると共に真の世界平和の
実現を祈ります。


私は今週、夏期休暇で日曜から埼玉の実家へ帰省していました。
実家では書棚の整理をする時間が少しありました。
幼少時代に読んだ本の多くを両親が残してくれており、
懐かしいものを多く見ることができました。

古いアルバムも残してあったのですが、その中に私が
生まれたときの育児記録がありました。

ちょうど遊びに来ていた妹はその育児記録のことを知って
いましたが、私は自分が過去に見た記憶がなく、おそらく
初めて開くのではないかと思いました。

中を開くと、最初の頁には万葉集に収められている
山上憶良の歌があります。

「銀(しろがね)も金(くがね)も玉も 
 何せむに 
 まされる宝子にしかめやも」


となりの頁には、”命名”という題が上に書かれて
私の生後まもない頃の白黒の写真が貼り付けられ、
命名者に父、命名日、命名の由来が母の字で書いてあります。

「お兄ちゃんがおばあちゃんの幸をもらったので、
 和ちゃんにも幸をもらい
 パパが「和を持って幸いあれ」と願って
 つけてくれました」
 
次の頁をめくると、生まれた日の日記とあり、
生誕時に体重が4550キロあって産婦人科医院始まって以来の
大きな赤ちゃんであったこと、臍ノ緒が首に巻きついていたので
酸素吸入されたとあります。

当時、父は27歳、母は23歳で上の兄はまだ1歳10ヶ月。

そして、当時の家の状態 という頁では、こう書いてありました。

「和ちゃん これから貴男の事をママは和ちゃんて
 呼びます。

 ハイって元気な声がハネ帰ってくるのは、
 まだ先の事になるでしょうけどね。
 
 今ね和ちゃんのパパのお仕事はとっても朝の早い
 仕事なの。だから出張が多いの。

 ママとお兄ちゃんは淋しいけどがまんしているの。
 生活のためなのよ。
 何事もそしてあなた達を幸せにしようとパパは張り切って
 いるのよ。
 だから出張が多いの。

 あなたにも今におおきくなって一人前になると
 その事がきっと分かるでしょう。

 そしてあなたの奥様になる人にも今のママの気持ち
 分かるでしょう。

 だから今はママとお兄ちゃんとあなたと3人で
 パパのいないこの家を守りましょう。

 あなたのパパはものすごく理解のある人です。

 そして勇気のある人なのです。」


出産後の記録では、8日目に退院し、12日目~21日目の間
父が出張とあります。
そして、12日目の横には
「パパ出張に行く。お兄ちゃんがむずかる。
 和ちゃんも泣き出す。
 ママも泣いてしまいました。」

そして16日目では
「あまりおっぱいをのまない。
 いつも60~80くらい。生まれの割合に少ない」


21日目
「今日から床を上げる。普通の仕事をする。
 でも腰が痛む。
 パパ出張より帰宅する。和ちゃん大きくなったって。」


その後の頁では各月の記録があり、
2才、3才での白黒写真が貼られていました。


父はこの9月に70歳になります。
何もないところから一代で会社を起こし、
多くの苦労を乗り切りながら、
家族を幸せにするために頑張って働き続けてきました。
家族を守るために、精いっぱい生き続け、親父の偉大な背中を
見せ続けてきてくれました。
常に家族、子ども達、孫達のことを細々としたことまで、
気にかけてくれ、母を通してアドバイスをくれています。

私が環境問題に関心を持ち、取り組むようになった
最初の原点は父のこの仕事にあります。
「日環エンジニアリング株式会社」
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そして70歳になることを大きな節目として、父は経営の
第一線から引退、兄に譲ります。
4年ほど前から行っている有機での野菜づくりに
ますます励んでいくことでしょう。
まさしく大地と共に生きる父です。

母は、6月で66歳になりました。
厳しい父についていくのは本当に大変であったろうと
物心がついた頃から思っていましたが、常にやさしい人。
世の中で人として恥じない生き方を説き、どんな時でも
常に私の応援をし続けてくれる母です。

現在の仕事が決まり、最初は派遣の時給からと話した私に
母はこう諭しました。
「お金は後からついてくるものだよ。
 与えられた仕事を精いっぱいにやることが大切。
 その中で周りや他の人たちからの信頼を得ていくことが
 できていけば、お金は後からついてくるよ」
と。

母のこの言葉を胸に刻み、その後私はプロパーとなり、
現在は環境社会貢献の仕事をまかされるようになっています。


私は今42歳。
こうして生きてこられたのは、
厳しく偉大な父と心から優しい母の大きな愛情に
包まれてこそと
心から感謝の気持ちでいっぱいです。
 
どうかいつまでも元気に長生きをしてください。

愛する父・母へ

                           和幸


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金曜日, 8月 10, 2007

「大事なのは距離ではなく方位である」-池澤夏樹

星野道夫氏が、96年8月8日、 カムチャッカで亡くなってから早11年。
尊敬するミチオさんを偲んで、親友である 池澤夏樹氏の言葉を贈ります。

「北極圏に属するポイントホープという村のクジラ漁の話を  
星野は「アラスカ 光と風」の中に書いている。  

彼らは広い北極海に出て行ってクジラを捕るわけではない。  
春先、海を覆っていた氷が緩み、細い水路が現れる。  
そこをクジラが通る。  

クジラはしばしば海面に出て呼吸しなければならないから  
この水路を通過するわけで、狭いところだからこそ  
ヒトが小さなウミアックで行っても追いついて捕ることができる。  
技術的には限界まで洗練されているが、  
しかし自然は多様に変化するし、クジラは大きい。  

捕れるか捕れないか、不確定要素が大きい。  
全ての要素がヒトに味方した時だけ、ヒトはクジラの恵みを  
自分達のものにできる。  
水路の幅が広すぎも狭すぎもせず、  
気まぐれなクジラがたまたまそこを通り、  
小さなウミアックが追いついてうまく仕留められた  
場合だけ、ヒトはクジラの恵みを自分達のものにできる。  

それはもう幸運と呼んでもいいほどのことだ。  
星野は、クジラが捕れたという報せを聞いて  
一人で海に向かって歌い、踊り、泣く老婆の姿を描写している。  

村の全員を潤す幸運への感謝であると同時に、  
クジラそのものへの感謝でもある。  

ヒトの視点から見ただけでは、アラスカの自然の  
全体像は捕らえれない。  
ヒトの幸運がすべてとは星野は見てないし、  
ポイントホープの住民もそうは見ていない。  

生命は個人において(あるいは個体において)完結するものではない。  
陸地だけでなく海の中も空も含めて、  
生物たちみんなが棲んでいる領域の全体が生きているのだ。  

しかもこれは今の時点についてだけ言えることではなくて、  
太古から遠い未来まで、神話的な時間と空間の広がる限りそうだったし、  
これからもそうなのだ。  

これがぼくたちと彼ら(ポイントホープの住民、クジラ、ホッキョクグマ、
アザラシ、魚、鳥、そして星野)の世界観のもっとも大きな違いである。  


「ナヌークの贈り物」という星野が書いた絵本がある。    
吹雪の中で眠った少年が、ナヌーク(ホッキョクグマ)から  
よき狩人になるための大事なメッセージを教えられる。
 
繰り返しの多い詩的な言葉は、食うと食われるの連鎖によって  
自然界が構成されていること、  
「いのち」が個体から個体へと伝えられるものであり、  
死はそのまま生へとつながっていることを教える。  

言ってみればすべての生き物は大きな生命のプールから  
自分のために一杯を汲み出してしばらく生き、  
やがて死ぬときにまたプールに生命を返す。  

大事なのはあなたやぼくの目の前の一頭のホッキョクグマや  
アザラシではなくて、その生命のプールであり、  
この地域に生きるもの全部を含めたシステムなのだ。  

いつか少年とクマが出会うときには、  
「お前がいのちを落としても、わたしがいのちを落としても、どちらでもよいのだ」  
という言葉がクマから少年に伝えられるのだ。  

それを承知の上で、各個体はそれぞれに自分をなるべく  
長生きさせようと努める。  
手を抜くことはゆるされない。  

オオカミに追われたカリブーの子は必死で逃げるし、  
餌が少ない夏にもシロフクロウは精一杯の餌を巣に運ぶのである。  

それでもやってくる死を、その時は従容と迎える。  
個体を放棄して、全体を受け入れる。    
星野が多くの写真と優れた文章に託してこの真理を教えてくれても、  
ぼくたちはもう彼らの世界に戻ることはできない。  

ぼくたちはあまりに遠くまで、物質文明の先の方まで来てしまった。  
ただ、少しは事態を是正して、少しはましな方にもってゆき、  
一人ひとりの身勝手を忘れて生命の全体を考えるために、  
星野の残してくれたものを読むことはできる。  

かわいいアザラシの赤ん坊をかわいいと思って見ているだけでも
星野の考えは染み込んでくる。  

彼の写真と文章はいわば目印としての北極星である。  
いくら歩いても北極星に行き着くことはできないけれども、  
しかし星を目印に北へ歩くということはできる。  

大事なのは距離ではなく方位なのだ。」 

深く共感する言葉です。

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日曜日, 7月 29, 2007

「何を食べるかでその人の生き方がわかる」-二部治身

妻の両親の所から親戚から送られてきたというたくさんの野菜を
いろいろと漬け込んである美味しいのをいただきました。

私は子どもの頃から、糠漬けが大好き。
特に、蕪、胡瓜、茄子などの夏野菜を漬け込んだのが 好物で、
母が糠床である陶器の甕の中で野菜と糠をかき回したり、
取り出した野菜の糠を水で洗い落とす様が面白くて、
いつも見ていました。

挿花家の二部治身さんはこう語られています。
「野菜などの素材を塩や酢、醤油などに  漬けることは、
 もともとは保存がきかない食べ物を、  
 腐らせずに長くとっておく知恵。  

 漬けることによって乳酸菌や酵母が働き、  
 その素材がもっている旨味が引き出されて、  
 より美味しい食べ物になってくれる。  

 私はそんな漬け物や発酵食品こそ  
 日本のスローフードの原点だと思う。  

 いまはスーパーに行けば漬け物でもなんでも売っていて、  
 田舎でも味噌や醤油を手づくりすることは少なくなってきた。  

 でも少しの手間をかけることで、もっと美味しく味わえるし、  
 食べ物のことや自然のことがもっとわかってくることも  
 たしかなんやね。  

 食べ物に関して忘れていけないと思うことは、  
 食べ物自体が季節やその土地の自然と不可分な存在で、  
 人の体に直接影響を与えるものであるということ。  

 だから、少々見栄えが悪くても有機栽培の野菜を使ったり、  
 昔からその土地ごとに守られてきた郷土料理を、  
 地元のおばあさんに聞いて教えてもらったり、  
 葉っぱを器にしたり、季節の花をあしらったりと、  
 体にいいことや自然を食卓に生かすことを  
 いつも心がけている。    

 そうはいっても、理想に思う食卓が、  
 我が家で簡単に実現できたわけではないんや。  

 たとえば、子どもが小学生の頃にこんなことがあった。  
 給食のない日に、サルトリイバラや朴の葉っぱに包んだ  
 玄米のおにぎりをもっていかせたことがある。  

 自然を感じてほしいからそうしたのに、  
 子ども達は少しも食べないでそのまま持って帰ってきた。  
 そんなおにぎりが恥ずかしいってね。  

 日誌を見ると「素敵なお母さんですね」とあるのに、  
 子どもは「こんなの食べられない。パンと牛乳がいい」  
 なんて書いてある。  
 子どもはウインナでつくった赤いタコなんかが好きだけれど、  
 私はそんなことも絶対にしなかった。   
 そりゃ悔しくて、泣きに泣いたな。  

 それでもめげずに続けているうちに、そのうち苦労した甲斐があってか、
 「誰々くんのところはいつもステーキでいい」なんていっていた子ども達が
 「旬のものは美味しい」なんていうようになった。  

 なにが本当に贅沢なのかとか、なにが体にいいのかとか、  
 時間はかかるけれど、自分の信じることを諦めずにやり続けていけば、  
 いつか本当のことをわかってくれると思うな。  

 毎日の暮らしの中で、三度三度の食事に何を食べるかは、  
 とても大切なことだと思う。    

 おおげさに言えば、何を食べるかでその人の生き方がわかるし、  
 食べ物にいちばん愛情が込められると思うな。」


国産、中国などの外国産と食品の安全性が問われるように
なってきている中で、あらためて大地からの恵みによる
食べ物が見直されてきています。

大地の恵みに少々の手間をかけることで、
本当に美味しい 食べ物をいただくことができる。
それはとても幸せなことですね。
ふだんの生活に少しづつでも取り入れていきたいものです。

ニ部さんの言葉は、流行などでは決してないスローフードの
本来の意味を教えてくれます。


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土曜日, 7月 21, 2007

「人に人格があるように木にも格がある」-山野忠彦

「人に人格があるように木にも格がある」

このすばらしい言葉を語られたのは、山野忠彦さん。
日本で最初に「樹医」を名乗られた木のお医者さんです。
山野さんは98年に亡くなるまで、全国各地の古木治療の
行脚にまわりました。

「どこが痛いんだ、辛抱しろよ。今、治してやるからな…」

そう、木に語りかけ、木の声を聞き、病に苦しむ木を治療し、
再生することに人生を捧げた私の尊敬する方のお一人です。

毎年、数回行くことになっている長野県黒姫、アファンの森。
かつて私はこの森の育ての親、師匠のC.W.ニコルさんと
松木さんのお二人から、地元の信濃町にある「閑貞桜」の再生の
話を聞かされたことがあります。

高さも幹回りも6メートル、樹齢400年といわれるこの老桜は、
雪の降る黒姫山を背にして、毎年春になると幹を覆うように
ドーム状に花をつけます。
しかし92年に、樹勢が衰え、根が朽ちかけたのを心配した、
ニコルさんは、山野さんに治療を依頼します。

「手遅れだといって何もしないのは間違い。  
 懸命に生きているうちは、助けたい。そう思ったんだ。」

山野さんは弟子の山本光二さんと二人で、土壌改良、害虫駆除と
手を尽くします。
少しずつ樹勢を取り戻しましたが、延命が精いっぱい。
数年かけても、以前のように花をつけなかったのです。

「長年、地元で愛されてきた木。何とか後世に残したい。」
そう考えて山野さん達は2年がかりで種を芽生えさせ、
苗を接ぎ木。
やがて、その”2世”が見事な花を咲かせるようになりました。

「山野さんや山本さんは木の心を理解できる人。  
 こうして木を生き返らせることが、木を崇めてきた  
 日本人本来の心を取り戻すことにもつながるんだと、  
 確かめさせてくれたんだ。」

遠くに並び立つアファンの森の樹木たちを愛しそうに見ながら
ニコルさんは懐かしそうに語ってくれました。

日本で初めて「樹医」の道を切り開いた山野さんは、
全国の古木や名木を数多く甦らせました。
しかし、山野さんと木の交流─その陰には、
まるで小説のような 波乱に満ちた前半生が隠されていたのです。

・指折りの資産家の息子だった若い頃。
・全てを失い、裸一貫の日々。
山野さん30歳の時でした。 そんな時、亡き養父の声が聞こえたといいます。

「これからは、自分が本当に好きなことを見つけろ。  
人を助け、それが自分の喜びにもつながるような。  
そして、生涯やり抜くことのできる人間になれよ…。」

目的を持てなかった人生にようやく小さな灯かりがともったと いいます。
山野さんが最初に始めたのは、集中豪雨が多い土地に植林する ことでした。
一度は失敗するものの、数年後には1000本の桜が 山々を
美しく染めるようになりました。

この桜を皮きりに、本格的な「山作り」が始まりました。
自分の手で山を息づかせる。その山は川を養い、
人間も動物も 命を豊かに育む。

こうして、山野さんは深く、木の魅力にとりつかれていきます。
敗戦後、調査の仕事で各地の山々を見て回った山野さんは、
荒れ果てた姿に心を痛めました。

「ああ、この木はもっと手を入れてやれば、スクスク伸びるのに。
可愛そうだな。早く手を入れてやれば。」

調査を終えた山野さんは、家族に「木の医者」になるという
決意を打ち明けます。
この時、山野さん48歳。
樹医として治療にあたるにはまだ長い年月の孤軍奮闘の日々が
待っており、昼は研究、夜は仕事という生活が始まったのです。

69年、公害が木々を苦しめたこの年山野さんは、
ついに「樹医」として木の治療のため全国行脚へと出発します。
木の治療を決意してから実に20年の歳月がたっていました。

依頼が来た樹木のほとんどは、樹齢100年から1000年以上の
古木でした。
学者でさえサジを投げるような、さしせまった状態からの蘇生。
重病だと2ヶ月もかかる治療もあったそうです。
いつしか、山野さんは木に手を当てるだけで、たいがいの診断が
つくようになっていました。
そうして、山野さんが20年間、 治療してきた木はいずれも
奇跡的に蘇りました。

88年、ついに山野さんが手当てした木は1000本に到達。
樹医として捧げた誓いが、この時果たされたのです。

戦後、荒廃した森を見て
「木が助けを求めてる。
人間の医者みたいに木の医者が要る」
といって 誰も手をつけない木の治療を進んで行い、
木に向かうと必ず数珠を巻いた手で幹を撫でて
「治療するで。我慢してや」とやさしく声をかけたといいます。

挫折からの再出発。 誰も考えなかった樹医として第二の人生を歩み、
「木が守ってくれた…」と、98歳の長寿を全うするまで 後半生の全てを、
木の再生に捧げたすばらしき人生でした。


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火曜日, 7月 17, 2007

「桃太郎の噺」-山岡鉄舟

子どもと接していて、いつも思うことは、その吸収力の大きさです。

聴覚を通して大脳に刺激を受け続けており、特に親からの言葉は
快い刺激になって想像力を喚起されるとの研究成果も出ているそうです。

そんなことを頭におきながら、子どもに童話などのお話を聞かせるとき、
いつも思い出す話があります。

それは幕末にあって不世出の剣人といわれた山岡鉄舟が、
やはり不世出の噺家と呼ばれた三遊亭円朝に、「桃太郎の噺」
をしてほしいと頼んだという話。

「鉄舟は、あらゆる面で、磨りあげたようなサムライの典型だった。
 幕臣で不世出の剣客であり、禅の徒でもあり、
 西郷南州が尊敬してやまなかった人物。
 維新後は、西郷の頼みで明治天皇の教育掛にもなった。

 死の床にあったとき、最期を予感し、寝具を取り払い、
 座禅のまま臨終を迎えたという。

 鉄舟は、円朝を尊敬しており、
 あるとき、自宅に招待し、一席の噺をお願いした。

 鉄舟がいった。
 「自分は幼いころ寝床の中で、母親から
  桃太郎の噺をきいたが、この歳になってもおもしろさが
  わすれられない。
  ぜひ桃太郎の噺をしてもらいたい。」

 円朝は大いに怖れ、とても自分には
 先生の母君が幼い感受性に
 あたえたような能力がない。とことわった。」


親が話してくれるおどぎ噺に、
宇宙のかがやきと同質のものを
子どもが感じるということを、
さすが不世出の噺家と呼ばれた円朝はわかっていたのでしょう。

そして、鉄舟はその気持ちを
大人になっても持ち続けていたということですね。


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日曜日, 7月 15, 2007

「昆虫採集は、生命観・自然観の基になる」-矢島稔

先週の土曜は、息子と二人で探検隊。
今日は妻も入っての探検隊になりました。
といっても、近所のわりと大き目の公園に遊びにいった ものですが、
大きな出会いがありました・・・
それは、カブトムシに会えたのです。

先日の日記で、息子が甲虫に関心を持ち始めたばかりと
書いたばかりだったのですが、まさか会えるとは思っていなかっただけに、
とてもうれしい 出来事でした。

広い公園の中をいろいろ歩きながら、歩道の脇の小さな階段を 降りて、
小道に着いたその時・・・
少し後ろを歩いていた妻が、
「良ちゃん、そこの木を見てごらん~」。

息子と一緒に振り返り、後方の右横にあった山桜を見ると、
「あっ、カブトムシ!」
ちょうど妻の背丈ぐらいの高さのところに、赤茶色で立派な
ツノを持つオスのカブトムシが。
3人で興奮しました。

森の神様に感謝して、家で飼育することにしました。
息子が初めて生き物を飼育する機会となりました。
体を持つと足をばたばたしていたのが、
ツノを持つとじっとする カブト。
やはり虫の王者だなあと見ていると、
子ども時代のことが 思い出されてきました。

毎年夏になると、虫採りへ。 友達と一緒だったり、
一人だったりしながら、虫かごと網を 持って、近隣の森を
いろいろまわり、カブトやクワガタが 樹木にいる姿を
見つけたときの
「やった~見つけた」という興奮は、本当に懐かしい思い出。

それは、私達大人の世代であれば、誰もが多かれ少なかれ持つ
郷愁の夏の思い出でしょう。
面白いもので、妻もやはり同じようなことを思い出していました。
しかし、今の時代、虫たちをとりまく環境はずいぶん 変わってしまいました。

①輸入された外来種による国産甲虫の淘汰  
 私が子どもの時にはいなかったヘラクレスオオカブトなど  
 外国産のいろいろな甲虫が、自然生態系を理解しない輸入業者  
 や愛好家によって相当持ち込まれてしまいました。  
 強い虫が大好きな子ども達に人気が出て広まっていった結果、  
 家や店などから逃げ出したものがいて、国産のカブトや  
 クワガタ達が淘汰されてしまっています。  
 遺伝子の交雑も心配されます。

②雑木林の荒廃による生息環境の悪化  
 カブトやクワガタは、広々とした雑木林が大好きです。  
 彼らは一見頑丈そうな体を持っていて、茂みの中をかき分けて  
 入っていけるように見えますが、実際はそうではないです。  
 あまり飛行が上手くなく、ジグザグに飛び回るので、後羽を  
 ひろげて飛ぶときには、大きな空間が必要です。  
 しかし、各地の里山は手入れをされずに荒れてしまい、  
 生息できる場所はどんどん減ってしまっています。


また最近では、虫採りの体験やその後の飼育をしたことがない
大人たちも増え、困ったことに虫を採るのはよくない、飼うのも
よくないという声も聞いたりします。

昆虫学者の矢島稔先生は、こう話されています。
「人間は本来生き物に、動いているものに興味があります。  
 それは人間も生き物だから。  

 一番困っているのは、かわいそうという感情論です。    
 昆虫採集とは、認識の方法であるのに、五感を使わない  
 認識をしていたこの何十年かが日本人を変えてしまいました。  

 遊びの中で生き物を殺すことはあるが、その経験は  
 その人の中に何らかの形で残ります。    
 代償体験としてその人の生命観・自然観の基になるものだと  
 僕は思います。  

 それを初めからかわいそうとただ見るだけで採らせなければ、  
 その人の自然観・生命観はそこで切れてしまうのです。  
 実際に自分で生き物を見つけてとったり、動きを見たりする。  

 この五感の体験を通して、生き物のことを知ると、  
 想像していたのとは全く違うということが分かるはずです。    
 虫に対して持っていた先入観を捨てて、子どもたちが  
 目を輝かせて里山を飛び回っている。  

 子どもたちは虫取り網で、虫をとろうとするけれども、  
 そう簡単にはとれない。  
 そのことで、虫も一生懸命生きていることを実感し、  
 命の大切さを知るのです。  

 子供が自然と触れ合うことで、命や環境の大切さが、  
 幼児体験としてすり込まれていくのです。」

いつか聞いたすばらしい言葉の中に、
「知恵のない知識は無意味だ」というものがありました。
自然や生き物たちと触れ合うという体験を子ども時代にしていく ことは、
知識偏重の時代の中でますます必要なことであろうと思います。

この夏のカブトムシとの出会いと飼育。
息子はこのカブトムシに「キング君」という名前をつけました。
自分とは異なる小さな虫が生きる姿を見つめながら、
息子がどのように感じ、成長していくのか。 楽しみです。
きっと大人になったときに、懐かしく思うことでしょうね。


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火曜日, 7月 10, 2007

「文月に入りて花陰に涼感を感じる」-☆森のクマさん☆

先週土曜日のことです。

週末恒例の息子との探検。
ちょっと足を伸ばして茨城県立博物館へ。
息子はこの博物館がお気に入りで、特に宇宙船に乗って
金星や火星を探検するミニシュミレーターが大好きです。

でも今日は、館内には入らずに広い敷地を探検。
「どんぐりの森」、「昆虫の森」、「夢の広場」、、など
様々なコーナーがあって、
息子と一緒にたっぷり歩いて遊んで たくさん楽しめました。

カブトやクワガタなどの甲虫に関心を持ち始めた息子と一緒に、
今夏は今まで以上に森の中で遊べる時間が増えるかなと
楽しみにしています。

夏の日差しがこれからますます強くなる中で、
森の中に入ったときのひんやりと感じる涼しさは、
自然に感謝することの一つ。

太陽が生い茂った木の葉の間に隠れ、
わずかな風に揺れる木の葉越しに見える
太陽のきらめきは目に美しいもの。
木の下陰に休み、宇宙エネルギーをたっぷり受けて
遊びまわる息子を頼もしく愛しく見やりながら、
花陰に涼感を感じる幸せな一時です。



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日曜日, 7月 08, 2007

「七世代先の人々のことを考える生き方」-デニス・バンクス

デニス・バンクス氏は、今年で71歳。

この北米先住民の勇者は、彼らの間に伝えられてきた

叡智を混迷する現代社会に与えるべく、長年動かれてきました。

彼は言います。

「精神的であるということは宗教的であることとはちがう。    

それは人間と人間が、人間と自然が、人間と母なる大地が、  

ひとつの環(サークル)となって互いの生命を敬いつつ 生きることに他ならない。  

インディアンは環の力を信じている。  

サークルは、地上に生きる全ての物が、  

互いに深くつながりあって生命を営んでいることの象徴である。  

それはどこまでも生を肯定する。  

だから私たちは、この生命のつながりの環が切れることの

 ないように祈りを捧げるのだ。    

宗教の教義にとらわれるのではなく、この生命の環の一部となって、  

他者を敬い、鳥を、木を、大地を敬うことが、  

精神性の意味するところである。」           

 「聖なる魂」より 「私たちや、私たちを取り巻く環境は皆、自然の一部である。  

すべてが命のつながりの中で生きていて、互いが互いを必要としている。  

環境を大事にすることは、自分自身を大事にすることなのだ。  

鷲やビーバーは、幾千年間同じ形で生をつないでいる。  

七世代先の人々のことを考え、  自分たちが受け継いだ生き方を  

子供たちに伝えよう。  

滝の音や燃える火に心を傾けること。  

幼い子供に話しかけること。  

草木の生命に思いを馳せること。  

それらは偉大な精霊と交わることである。  

私たちを含めて、すべてが地球の住人なのだ。  

空気、太陽、火、水、土、  

全ては所有することができない。  

偉大な精霊を、どうやって  所有できるというのだろう。    

火は、私たちが生きていくうえで  欠かせないものである。  

火は暖かさを与えてくれるだけでなく、生きる指針も与えてくれる。  

火と対話しよう。    

水や雨を大切にしよう。  

水は私たちの考えを浄化してくれる。  

雨は空気を浄化して、地の渇きをいやしてくれる。  

私たちは水や雨なしでは生きられない。  

地球にあるものは皆、それぞれ存在する意味と役割をもつ。  

自然の音に耳を澄ませば、自然は私たちに色々なことを教えてくれる。  

鳥の鳴き声に耳を澄ませば、自分の心がわかってくる。  

魚の泳ぎに目を向ければ、 自分自身の答えが見つかる。  

花には生命を絶やさないようにするという役割がある。  

花の美しさや色にもそれぞれの役割がある。  

目標に向かう私たちに力を与えてくれ、未来への夢を広げてくれるのである。  

目がないから見えないとは限らない。  

耳がないから聞こえないとは限らない。  

鳥、魚、花、木、すべてが私たちの話を聞いている。  

彼らに向かって心を込めて話すこと。    

寒い冬の日に、木々が話をするのが聞こえてくる。  

私たちや、私たちの未来について話している。  

いつでも木々を敬うこと。  

木の枝がなければ花は咲かない。    

木があってこそ森になり、その美しさも生まれるのだ。  

なぜ木を倒したり、森を破壊したりするのだろう。  

木は私たちに生命の息吹を与えてくれる。  

鷲、鹿、ビーバー、全てが  自分たちの流儀で生きている。  

それぞれがビジョンを持っている。  

肝心なのは、他人をまねることなく 自分自身のビジョンを持つことだ。  

夢は私たちにストーリーを語り、ビジョンの源を与えてくれる。  

私たちが得たビジョンは、また他の人の夢となる。  

人々に良い夢を見せてあげることだ。  

ひとりひとりの画家は夢をもっている。

一枚の絵には、何かが隠されている。  

画家の語りかけに耳を傾け、自分たちと結びつきのある話を聞こう。  

太鼓の音や人々の歌は、私たちの心臓の音だ。  

私たちの心臓の音は、いつでも宇宙の鼓動を映している。  

歌を歌いたくなくなったり、太鼓を打ちたくなくなれば、  

誰も私たちの鼓動に耳を澄まさなくなるだろう。  

知恵の種は、私たちの中心にある。  

自分自身の中心に、汚れのない思考とよい水を与えること。  

そうすれば、閉じた中心が開いてきて、知恵の実を結ぶことだろう。  

私たちの未来は過去にある。  時は流れているのだから。  

日々くりかえす行いこそが生活であり、文化を伝えることである。  

年長者から知恵を学ばなければならない。  

そして、それを実行しなければならない。  

一日一日を生きていくことが、生きる目的なのだ。  

日が暮れてしまったら生きる目的を失う、というわけではない。  

年を重ねてから、幼いころのことや仲間のことを思い返す。  

眼にも胸にも涙が浮かんでくる。  

そんな時、人は幸せを感じ、その尊さを知る。」

七世代先の人々のことを考え、すばらしき未来社会を目指して、

いま為すべきことを行っていきましょう!


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水曜日, 7月 04, 2007

「あらゆる宗教の後に出現するもの」-中沢新一

中沢新一さんが語る、中沢哲学、あるいは中沢宗教学と
いうものは、いつも私に多面性を持つ新鮮な風を送ってくる。

中沢さんは、単に表面的な宗教哲学の研究にとどまらず、
チベット密教に弟子入りしてまでも、現代人が歴史の歩みと共に
時の流れの中に忘れ置いてきた、人類が古来培ってきた自然世界
と結びつくことで獲得してきた叡智を探ろうとしてきました。

一方で、一神教の神(ゴッド)と多神教における多様なスピリット
を対比させながら、人類とカミの関係を明らかにし、未来において
その関係性をどう発展させていくのかを探っています。

「あらゆるものを商品化し、情報化し、管理する今日のグローバル  
文明は、長い歴史を持つ諸文明が生命を汲み上げていた泉の多くを、
すっかり干上がらせてしまいました。  

本物そっくりの偽物はあふれかえっていますが、実際にはすでに  
根を断ち切られているので、古い伝統を持つ宗教でさえ、
いまでは造花の美しさや見かけの正しさしかもっていないケースが  
ほとんどです。  

しかし、そんな人類に変わっていないものが、ひとつだけある  
ことを忘れてはいけません。  

それは、私たちの脳であり、心です。  

数万年の時間を耐えて、原初のみずみずしさをいまだに保ち続けている、
原生人類の脳だけは、いまだに潜在的な可能性を失ってはいません。  

そこにはまだ、はじめて原生人類の心にスピリット世界が出現したときと
そっくりそのままの環境が、保たれ続けています。  

根本的に、新しいものが出現する可能性を持った場所といえば、
そこしかありません。  
私たちはそこに、来るべき未来のスピリットを出現させるしか
ほかには道はないでしょう。  

聖書の神(ゴッド)を信仰した人々の想像力が生んだ最古のロボットは
「ゴーレム」という名前を与えられました。  
ゴーレムは一神教の神が世界と人間を創造したように、生命のない素材に
息が吹き込まれることによって、動き出したのです。  
そのため、一神教の想像力のもとでは、生命と非生命の対立を  
かかえたままで苦しみ続けることになります。  

ところが、巨匠手塚治虫によって日本で生まれた、「鉄腕アトム」は
はじめから、これとは一線を画していました。    
アトムには、多神教宇宙の記憶がなまなましく息づいています。  

「高神」の理想を追い求めながらも、地上と他界に満ちみちる  
無数のスピリットたちの望みにも、耳を傾ける
2003年に生まれ、一神教的な核技術を胸に内蔵したこの「新しいスピリット」は、
来るべき時代の「倫理」を自力で創造しようとして、悩み苦しんでいました。  

私たちは今ではみんな「科学の子」です。  
アトムにあって、私たちに欠けているものがあるとしたら、  
それは野生状態の心なのでしょう。  

しかし、心配は無用です。
私たちの脳の組織には、3万年前と変わらずいまも「超越性」への
斥候活動を続けるスピリットが住み、心の野を開く鍵は  
私たちの身近に放置されています。    

スピリット世界の記憶をかすかに保ち続けている私たちには、  
「あらゆる宗教の後に出現するもの」について、たしかなイメージを
抱くことも不可能ではありません。    

宗教のアルファー(原初)でありオメガ(未来)であるもの、  
それはスピリットです。」      
      
 (中央大学における講演録より抜粋)


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「"再生" 屋久島の森が教えてくれたこと」-☆森のクマさん☆

本日記は、1997年屋久島の深い森の中での原体験についての ものです。

この原体験こそは、現在の自分の基になる「再生」の時であり、

自分の命と自然とのつながりを深く自覚し、 自然環境を守ることに、

これからの人生をかけていこうと 決意するようになった

記念すべき時でありました。

記録用にここに記します。

***************************** 

自分を見つめ直し、これからの人生を模索していたある時の 事です。

97年12月末に、屋久島を一人旅しました。

観光シーズンではないこの時期、 他に旅する人もそれほどなく

気ままにレンタカーで島を まわったり、山に登ったりしました。

モッチョム岳という山に登ったときのことです。

本州の山々と違い、幾重にも木の根が生え、花崗岩に登山道が

何度もふさがれるという登山は、とても体力を要しました。

歩いていてとても喉が渇いたのですが、その日は旅館に

水筒を忘れたことを気づきました。

取りに戻る時間はなく、なんとかなるだろうと そのまま登り、

頂上に着いて一休みをしていました。

眼下の景色を堪能していると、

突然、下から霧がもくもくと湧き上がってきたかと思うと、

徐々にあたりが真っ暗になり始めました。

これはいけないと急いで身支度を調え、 下山し始めたのですが、

視界はどんどん悪くなり、 とうとう途中で道を見失ってしまいました。

前日から泊まっていた旅館には、この日の登山のことは 伝えてなく、

他にこの山を登る人もない中で、 遭難しても探してもらえないだろう、

やばいなという 焦りがでてきました。

そんな気持ちで歩き廻っては、 道が見つかるはずもありません。

焦る気持ちばかりが積もり、 どんどん道を下っていってしまったのです。

途中、山の中ほどだったでしょうか、

光が差さない暗い 広場のような場所に出ました。

その広場には1本の巨大な屋久杉が立っていたのです。

その屋久杉を見上げると、雷にやれたのか途中で

ばきっとなくなっていたのです。

何だか恐ろしくなって、早くこの広場から離れたいと

足が急ぎ、またまた道を下ってしまっていました。

しばらく行くと、 深く苔の積もる巨木が何本も倒れている

うっそうとした暗い廃道の上にあたる崖に出ました。

その崖の上で初めて自分の足が止まりました。

この道を下りて行こうか、それとも戻ろうか・・・

頭の中に選択が浮かびました。

後で考えると、本当に大きな選択でした。

下にずっと続いている廃道は、苔が深く 倒木が折り重なっている姿から、

かつて使われていたのは 戦前だろうか、もしかすると江戸時代だろうかと

思うような様相。

普通であれば、そんな道を行けば危険なのはわかるはずなのに、

その時の自分は明らかに混乱していました。

おそらく、その当時が人生の谷底にいたせいもあってか、

気持ちのレベルがかなり低い状態にあったことが大きく

影響していたのでしょう。

「行こうと思えば、行けそうだ。どうしよう、進もうか」

しばらく自分の中での模索がありました。

しかし、その時、一方の自分というか本来の自分からの 声が

聞こえたのだと思います。

「このまま進んだら、俺は本当に遭難するぞ。死んでしまうぞ。」

「いやだ、死にたくない。」

「落ち着け、落ち着け」

そう言い聞かし、そして無意識でした。

気がつくと自分の頬を 叩き、胸を叩き、大声で自分の名前を

叫んでいました。

「しっかりしろ、しっかりしろ」

段々と気持ちが冷静になっていくのを感じ、

その後は元来た道を慎重に探してゆき、 ようやく登山道を

見つけることができたのです。

その後は一心不乱に道をどんどん戻りました。

そして、見覚えのある渓流までようやく着くことができたのです。

「よかった、ここまでくればもう安心だ」

安心すると、一気にのどの渇きをおぼえ、 渓流の澄んだ水を

思う存分口にしました。

がぶがぶ、がぶがぶと。

そうして放心の状態で、そこに腰をおろし、ほっとしました。

その時。 あらためて周りを見たときにはじめて見た光景。

一生忘れられません。

そう、何百年以上も立っている樹木が立ち並ぶ 森の中に

自分はいたことに気づいたのです。  

不思議と落ち着いた気持ちでした。

周囲の景色を眺めていたその時、ふっと自己の小ささに

気づかされたのです。

今日遭難していてもおかしくなかった自分。

そうであればこの命はなかっただろう。

こんな大きな森の中ではどうなってもおかしくなかった 小さな自分。

そんな小さな自分が こうして無事でいられたことが、

すごくうれしくなりました。

自分という存在が生きていられることに大きな感謝の

気持ちが沸き起こりました。  

周囲には、ずっとこの場所に生えている何十年から 何千年という

生を得てきた屋久杉やさまざまな森の樹木が 聳え立っています。

鳥のさえずりも聞こえます。

静かに流れる渓流の音も聞こえます。

様々な生命を感じました。

空気と水と土から恵みを受けて、生命は生かされている、

そう実感しました。

そして、自分もその中のひとつの生命だと。

それは、自分の心の奥から湧上がってくる実感。

自然と涙が流れ、感動していました。  

その時です、中学の頃から問い続けていた

「自分はどうして生きているのだろうか」、

「人間は何のために生きているのだろうか」、

「生きるということの意味は何だろうか」 ということに対して、

探し求めていた答えがふっと見つかりました。

「この大事な自然を守っていこう。

人間も大自然の循環の一部ではないか。

この循環を守ることこそが自分の役目だ」

そう思ったのです。

「今、自然の循環が開発などによって破壊されつつある。

恵みを我々に与えてくれる大切な自然をなぜ壊すのか。

目の前にある大小無数の生命も自分の生命も

同じこの星にいま生きている大事な命。

失われてゆくこの自然を守らねば、 そうだ、それこそが

自分の生きる道だ。」

人生の目的と役割を思い出し、強い意志が自分の中に 生まれた

「再生」の時でした。

しかし、現実社会で生きており、安定した生活を捨てるのには

勇気がいりました。 しばらく悩みました。

でもね、自分の人生です。

責任を持って悔いのない様に生きてみたいと思ったのです。

正直な気持ちで自分のやりたい事がみつかり、

向かっていくと不思議と様々な情報・人が集まってきて くれるのですね。

シンクロニシテイ(偶然の一致)というのは 本当にあるのだなと思います。

その一つとして、ある専門学校に 自然環境保全学科の設立が

日本で初めて認められたとの 記事を目にしたのです。

この学校では、尊敬するC.W.ニコル氏が教えてくれると

書いてありました。

かつて偶然出合ったときの紳士ぶりにとても感動したことを 思い出しました。

本当は、アメリカやカナダに行って勉強しようかと準備して いたところでしたが、

早く現場に出たかったこと、

日本国内の各地の自然をもっとよく知っておきたいなど考え、

結局この学校で学ぶことにしました。

学んだ技術と知識を活かして、自然保護業務に携わっていこうと 決めました。

結局その後、仕事の都合で会社を辞めるのに 半年以上かかってしまいましたが。  

自分で出した結論なら、 その結果がどうであれ納得できるものですね。

自分と向き合うことが大切なのでしょうね。

心に深くひびいた言葉があります。

「結果が、最初の思惑通りにならなくても、

そこで過ごした時間は確実に存在する。

そして、最後に意味を持つのは、

結果ではなく、過ごしてしまった

かけがえのないその時間である」 (星野道夫)  

この言葉を思い出す度に、 結果にこだわらず、

今この時を自分の気持ちに 正直になって楽しんで

頑張ろうって気持ちになれるのです。



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月曜日, 7月 02, 2007

「絵本の力」-柳田邦男

休日の深夜、数冊の本に目を通し、
時計を見ると そろそろ日が変わろうとしています。

さあ、明日からまた一週間、仕事にがんばろう、と思いながら、
過ぎ行く休日の時間を少しでも長く楽しみたくて、
もう一冊読もうと、書棚に手を伸ばし・・・
柳田邦男さんの本を手にとってみる。

すると、絵本のことを書いてある箇所がありました。
それは絵本の持つ、言葉のみずみずしさや
胸に響くあたたかさについて語っているもので、深く共感しました。

私は幼少から絵本が大好きで、そこから現在に至る本好きが
始まったのですが、今はまた息子もだんだんと絵本の魅力に
はまってきており、そのことをうれしく思っています。

息子は寝る前に必ず、絵本を数冊母親に読んでもらっており、
多いときには5冊以上も読んでもらっています。
休日や平日早く帰宅したときには、私が読むこともありますが、
絵本の中の絵を一所懸命に見つめる息子の表情が、
愛しくて なりません。

絵本の楽しさを知ってほしいと、毎日読み語ってくれている妻に
感謝しながら、絵本から得られる創造の世界は彼の人生を
きっと豊かにしてくれることだろうと信じています。

柳田さんは、以前に次男を亡くされて感覚が敏感になっていたときに、
絵本にふれ、物語性のある絵や日常的な言葉が生き生きと
使われていることに感動したと語っています。

「”休日には絵本を一冊、ゆっくりと”    
これは子どものための心得ではない。  
私自身のための心得だ。  
いや、心得というより生活習慣と言ったほうがよい。  

8年前の50代半ば過ぎに次男を喪ってから、  
懐かしさもあって書店の絵本コーナーに佇んだのが  
きっかけだった。  
感覚が敏感になっていたのだろう。  
手に取った絵本の世界にすーっと入り込み、  
物語性のある絵に魅せられたり、  
日常的な言葉が生き生きと使われていることに感動したりと  
いった経験をするようになったのだ。    

人が本からどれだけのものを読み取るかは、  
その人の人生経験や内面の成熟にかかわっている。  
実際、若い頃に読んだ小説を、人生後半になって読み直すと  
はじめて読むような新鮮さを感じ、  
文章や会話の言葉にこめられた深い意味に気づくことが少なくない。  
絵本だって同じだ。  

絵本の言葉は、簡単でありふれたもののようでありながら、  
絵の味わいとのハーモニーによって、  
俄然強く深い響きをもって心を揺さぶってくるのだ。  

最近出会った一冊が、「きりのなかの はりねずみ」だ。  

”はりねずみは、夜になると大好きなこぐまの家にでかける。   
一緒に星をかぞえるのが大好きなのだ。     

手にはこぐまの大好物の「のいちごのはちみつに」を器に入れ、
赤い水玉模様のハンカチーフに包んで持っている。   

途中、水たまりに映る星に感動したり、霧の中に幻想的な白馬を見たりする。      

霧が深く、足をすべらせて川に落ちてしまう。   
仰向けになって流されるはりねずみは、こぐまへのプレゼントの包みを、
お腹の上にしっかりと持って離さない。   

はりねずみは、水中から現れた大きな魚に救われて、背中に乗せてもらう。   

無事こぐまの家にたどり着くと、二人で並んで座り、星を眺める。”  

はりねずみの想いを記した最後の言葉がいい。  
「こぐまくんと いっしょは いいなと おもいました」  

こんな一見ありふれた言葉が、なんとみずみずしく、  
しかもあたたかく胸に響いてくることか。  
そこに絵本の力がある。  

物語の展開と絵と言葉とが相互に高めあい、  
愛の温もりをみごとに表現し切ったこの絵本は、  
今私の机の横に常に置かれている」


絵本の持つ心温かな世界、息子や次代を担う子どもたちが
たくさんふれていくことを願っています。
感受性を豊かに愛を多く持つこどもたちが増えていくことを 願って。  


span >お越しいただき、ありがとうございます。共感したら、Click me! 

土曜日, 6月 30, 2007

「自然からの贈り物を感じ取る力」-レイチェル・カーソン

先週末のことです。息子との探検日のことをご紹介!

この日は幸い天気が晴れに変わってくれたので、
自転車に乗って約4時間、近隣をいろいろまわってきました。
氷をたくさん詰めた水筒を持ち、駅前にあるパン屋で
息子お気に入りのミニドーナツをおやつに買って出発!

住宅街を抜けて、手賀沼周辺のあちこちをまわり、
雑木林、田んぼ、畑、公園、、身近な自然でたくさん遊びました。

途中でさまざまな生き物たちにも会うことが。
キジの親子(今日はオスが鳴き声を聞かしてくれました)、
巣で卵を抱くオナガ、いつも滑稽に尾を動かすハクセキレイ、
葦にバランスよく乗っているヨシキリ・・・

トンボ=何匹も見たのですが、そのうち一匹は死んでいたので  
息子とお墓をつくってあげました。
息子は、これは土になって  その後は植物になっていくんだよね、と。

まだ小さなカマキリの子供もいて、息子が捕まえようとすると ピョンと
飛ぶのを面白がっていました。

他にも色とりどりのお花たち・・・
お陰で、息子は大満足。

「パパは明日仕事だから、その分今日たくさん探検しようね」
言った通りになったからでしょうか。
一日に満足して眠りにつきました。

尊敬するナチュラリスト、レイチェル・カーソン女史は
親が子供と一緒に自然にふれ、感動を分かち合うことが
大切だと語っています。

「子供たちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、  
驚きと感激にみちあふれています。    

残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに  
澄み切った洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの  
直観力をにぶらせ、あるときはまったく見失ってしまいます。  

もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る  
善良な妖精に話しかける力を持っているとしたら、  
世界中の子どもに、生涯消えることのない  
「センス・オブ・ワンダー(神秘さや不思議さに目を見はる感性)」  
を授けてほしいとたのむでしょう。  

この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、  
つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、  
かわらぬ解毒剤になるのです。  

妖精の力に頼らないで、生まれつきそなわっている  
子どもの「センス・オブ・ワンダー」を  
いつも新鮮にたもちつづけるためには、  
わたしたちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを  
子どもといっしょに再発見し、  
感動を分かち合ってくれる大人が、  
少なくともひとり、そばにいる必要があります。  

わたしは、子どもにとっても、どのようにして子どもを  
教育すべきか頭をなやませている親にとっても、  
「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要でないと  
固く信じています。  

子どもたちがであう事実のひとつひとつが、  
やがて知識や知恵を生み出す種子だとしたら、  
さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子を  
はぐくむ肥沃な土壌です。  

幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。  

美しいものを美しいと感じる感覚、  
新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、  
憐れみ、賛嘆や愛情などの  
さまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、  
次はその対象となるものについて  
もっとよく知りたいと思うようになります。  

そのようにして見つけ出した知識は、  
しっかりと身につきます。」

子どもと一緒に自然にふれること。
こちらが心を開いて入っていけば、 自然はいつもさまざまな形で
何かしらの贈り物を用意してくれていますね。


span style="color:#33ffff;">お越しいただき、ありがとうございます。共感したら、Click me! 

火曜日, 6月 26, 2007

「自然を思想することにより魂を取り戻す」ー鶴岡真弓

映画「地球交響曲・ガイアシンフォニー」は、素晴らしい映画。
大好きな映画です。
現在は、第6番まで完成されており、私もこれから6番を
観たいと思っています。
多くの方が何度も見ており、これからも様々な方たちに地球に
生きることの有り難さや素晴らしさを感じさせてくれること でしょう。

この映画の第1番の出演者の一人が、鶴岡真弓さんです。
エンヤと共に出ていました。
鶴岡さんは、ケルト文化の研究家。
古来の日本人が大切にしてきた”多様性”を同じく大事にし、
現在も受け継いでおりケルト文化のすばらしさを守り継いでいる
アイルランドのことを日本に紹介しておられます。

「自然や自然環境について語るというのは、  
人間や世界を考え続けていくときの、  
答えのない扉の鍵、  
「考えるきっかけ」のようなものではないでしょうか。  

歴史という人間の危うい経験を何とか役立て、  
私たちが忘れ去った宝物を見つけ出すきっかけにしたい、  
そう思います。  

自然に対する人間の想像力というものが希薄になってきている  
いまだからこそ、余計にその重要さを感じるんですね。  

自然や風土や風景というのは、正直なもので、  
その国民や民族の思想を目に見えるかたちで映し出してしまう  
鍵なのだと思います。  

戦後60年以上経って、いま、日本人の誰もが
心の中で気づき始めているわけですが、
戦後の日本人は、アメリカから授けられた民主主義や
欧米の合理主義の中で生きてきました。  

しかし、その中で日本人の精神文化の中身は、
得たものより失ったものがあまりにも大きいと思うのです。  

日本の歴史を通じて、もっとも自信のない日本人、
つまり自然と風土の中に思想を持たない日本人になってしまったと  
いう落胆があります。  

いくら破壊されたとはいえ、まだまだ緑と水に覆われ
囲まれているのが日本であって、
子供のころに山野を駆け回っていたときに感じた
あの自然というのは、超越的な恐ろしいものではなく、
すぐ自分のそばにある親しみのある自然だったと思うのです。  

そういう環境の中で、日本人は自然を親しい神々と
感じ敬ってきたのだと思います。  

つまり、日本人の神々というのは、自然のかそけき声や、  
風の微妙な肌合いを身近に感じるもので、
その緻密さとか、微妙さといったものが、  
私たちの思想や文化の根源になっていると思います。  

しかし、そうした風土の思想を持つ日本に、戦後、  
アメリカという強力なプロテスタント国家の自然観が  
教条的に入ってきました。    
世の中の全ては、絶対不変の原理と法則によって美しく  
完璧に管理されている、
自然もまた完璧に人間の英知と科学で  統御されるものなのだ、
という一神教の方法論が、明治以来日本に入り活用されてきた。  

特に戦後は、工場の汚水が自然を破壊したという物理的な  
問題以前に、いわば形而上学的に杭が打ち込まれ、  
それによって日本人の自然観は、わずか60年の間に  
大きく変容させられることになってしまいました。  

これは、悪いという意味ではなく、キリスト教社会では  
唯一絶対の「神」が精神生活から生産形態、自然までも統率  
する管制塔なのですが、  
日本において、この管制塔方式の「型」が真似された結果、  
それがむりやり学校とか家庭の日常の心情の次元でも、  
その型だけが教え込まれ、管理の形だけの民主主義とか、  
形だけの生活というものしか、手元に残らなくなってしまいました。

もうそこには、親しい「自然」の山野を駆け巡ったときの、  
躍動する楽しい心も、アニミスティックな自然への敬いも  
忘却されてしまって何もありません。  

アメリカ人の自然観は、ディズニーランドの池であろうが、  
アンクル・トムの小屋の森であろうが、
西部劇の荒野であろうが、
すべて彼らの「神=創造主」の管理の下で
 完璧に造られた、神の「完全性のユートピア」としての  
自然なんですね。  

それは、先住していた北米先住民の自然崇拝的自然とは  
まったく異なります。  

この60年の間に、なぜ、日本人が「魂」を失ってしまったのか。  
それは、自分たちの手で自分たちの表象としての自然、  
環境を度外視して、西洋の借り物である爪先立った  
自然観の中で愚直に生きてきた結果です。    

「物理的に自然環境が変わってしまった」と嘆く前に、  
自分たちがしっかりと「自然を思想しているか」どうかを  
自問しなければならないと思います。」  


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土曜日, 6月 23, 2007

「森の旅人」-ジェーン・グド-ル

数年前、映画「地球交響曲・第四番」の完成試写会に
参加したことがあります。

上映の後、映画出演者の一人であり、チンパンジー研究者の
ジェーン・グド-ルさんの記念講演を聞くことができました。

私と妻は、最前から3つ目の列の真ん中に座っていたのですが、
真近に見るグド-ルさんは、とてもきれいな光を放って いました。
(私は特にオーラが見えたり、意味がわかる人間ではない
 のですが、講演会などで、講師の方に強く共鳴を受けたとき、
 その方の周りに光を見ることが時々あります)

この時見たのは、とてもきれいな白い輝きを放つ光でした。
あまりにもきれいな光だったので、今でもはっきりと
思い出すことができます。

グド-ルさんは英国生まれで、26歳のときにタンザニアの
ゴンベで野生チンパンジーの調査を始め、チンパンジーの
道具使用などの画期的な発見をしました。

チンパンジーの生息域である森林を守るため、世界中で講演を
行っており、また、子供のための自然・人道教育にも尽力し、
2002年国連より「平和の使者」に任命されています。

私は、彼女を心から尊敬しています。
チンパンジーを愛し、 森を愛する天使です。
彼女が語っていた素晴らしい話を紹介しましょう。

「わたしはチンパンジーを守るため、終わりなき旅へ  
 出発しました。  
 それは過密スケジュールで世界各地を講演して回り、  
 3週間と同じ場所にとどまることなく、休暇はすべて  
 執筆にあてるという過酷な旅になりました。  

 しかし講演に行けば、わたしは集まってくれた人たちから  
 たくさんのエネルギーをもらうことができるのです。  

 アメリカのある都市で、講演が終わったときに、  
 小さな女の子がスヌーピーのぬいぐるみを抱えて
 お母さんと一緒にわたしのほうへ向かってきました。  

 その子は、ぬいぐるみを抱いていないほうの手に、  
 小銭がいくらか入ったビニール袋をにぎりしめていました。  

 その女の子は一年前にお兄さんを白血病で亡くしていました。  
 お兄さんは動物園でチンパンジーを見るのが大好きでした。    

 彼女はある日、ナショナル・ジオグラフイック誌で、  
 ゴンベのチンパンジー、フリントが母親を失った悲しみの  
 あまりに死んでしまった話を知りました。  

 兄を亡くした彼女にはフリントの深い悲しみがわかりました。  

 その子はわたしがアフリカでチンパンジーの孤児院を  
 設立し、母親を亡くしたチンパンジーの子どもたちの世話を  
 していることを知っていました。  

 そこで彼女はお小遣いをこつこつとためて、  
 スヌーピーのぬいぐるみを買ったのです。  

 「夜、一人で寝るときにその子が淋しくならないように、   
 このスヌーピーをあげて」  
 彼女は続けて言いました。
  
 「このお金でバナナを買ってあげて」  
 その子のお母さんが、娘が貯金をしていたわけを
 知ったのは、講演会の日の朝でした。  

 わたしはこみあげる涙を抑えることができませんでした。

 子どもの熱意は、ときに思いがけない力を発揮します。  
 若い人たちが、不可能だと思われたことを可能にし、  
 世界を変えていく-。  

 わたしはそれを励まし続けたいのです。」


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金曜日, 6月 22, 2007

「幸せとは、相手のなかに自分の存在する喜び」ー大平 礼子

なにげなく目を通していた新聞の書評コーナーで、
一冊のタイトルに目が留まりました。

「貴士(きひと)くん、よく生まれてきてくれました。  
よく育ってくれました」  大平 礼子 (著) 文芸社

作品の紹介は次のように書かれていました。
わずかな文章なのに、読んだだけで胸がいっぱいになり、
涙が溢れてしまいました。

”生きられるかどうかわからない「18トリソミー」という  
難しい病気を背負って生まれてきたわが子の出産、  
救急搬送、手術、初外泊、家族との対面、  
そして別れ・・・。  

わずか7ヶ月弱の短い生涯を、  
母親として無我夢中で接し、看護し、抱っこし、  
母乳をあげ、  
祈りを込めて「星に願いを」を  
歌い続けた全記録。  

「生きてくれてるだけでいい」  
「何でもない幸せがこの上ない幸せ」  
と気づき、  
「がんばってくれました」  
「幸せって、『相手のなかに、自分の存在する喜び』を  
見出せる時に感じられるものなのですね」と  
幸福感を得る。    

母ごころで生命の意味をみつけ、  
全身全霊を込めて 「生きた証」をまとめあげた
感動の1冊。  

サブタイトルは  
「夢のような二百四日間を、本当にありがとう」。”


ネット検索したところ、 著者の大平礼子さんの
言葉なのでしょう、 こう書かれていました。

「人間、辛い事や悲しい事と  
出会わずに過ごせたら  
どれほど幸せなことか  

でも、辛い事や悲しい事の中にも  
嬉しさや喜びを  見出せる時がある  

だから、  
一歩・・・踏み出すことにより  
得られる「幸せ」から  
目をそむけずにいたい」

全ての生命は尊いものですね。


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