日曜日, 5月 13, 2007

「心が通えば、おのずと人は動く」-伊庭貞剛

伊庭貞剛は、明治中期、住友第2代総理事として、
住友銀行を始め多くの企業の設立に尽力した
徳を重んじ、常に公利公益を考えていた企業家。

伊庭は事業について、
「住友の事業は住友自身を利するとともに、
国家を利し、社会を利するものでなければならない」
と説き、それを実行し続けたといいます。

私の勤めは、企業において環境社会貢献を担当する中で、
森林生態系をいかに保全していくか、
世界各地で現在住んでいる方たちの生活安定との両立を
いかにはかっていくか、ということであり、
次代を継いでゆく人々に対して、より良き地球環境を
残していけるように動いていくことです。

日々、様々なことを考える中で、
伊庭貞剛氏の生き方や言動は
自分に光明を与えてくれるものです。

伊庭氏が真骨頂を発揮したのは、住友の屋台骨だった
愛媛県新居浜市の別子銅山の紛争と煙害を見事に
収めたことです。

明治27年早春、住友家が2百年にわたって、
銅を採掘してきた 四国・別子銅山でのこと。

*************************
「ひどいねえ」、と伊庭貞剛は思わずつぶやいた。
見渡す限りの山々は、木々が根本から掘り起こされて、
一面、黒褐色の世界だった。

神さまや仏さまや、自然というものに対して 申し訳がないねえ。
すぐ造林をしよう。
植林予算をすぐに何十倍かに 増額して、いや、何百倍でもよろしい。
この枯れた山、枯れようとしている山に全部「緑」を 返すのです。
頼みますよ。

伊庭の命令にしたがって、大規模な植林が進められ、
ほぼ百年後の昭和42年までに6422万8千本が
植えられたといいます。
この山林は、その後管理会社として住友林業が設立され、
今日まで住友の山として受け継がれています。

足尾銅山の鉱害を追及していた田中正造は、
伊庭の一連の行動を高く評価し、
別子銅山を「我が国銅山の模範」とまで言い切っています。

伊庭は四阪島完成の前年、明治37年に58歳の若さで
住友総理事を引退。
退任の辞の代わりとして、文章「少壮と老成」を
雑誌「実業之日本」に発表。
不言実行を旨とし、足跡を残さないことを
人生の理想としていた伊庭が公に発表した唯一の文章です。

「早く楽をしたいというような考えではなく、  
 ある一つの目的を確乎と握って、一代で出来ねば、  
 二代でも、三代でもかけてやる位の決心で、  
 一生懸命に人事を尽くすなら、  
 成功は天地の理法として自然に来るものである。」

伊庭の心友河上謹一は、 明治40(1907)年頃、
外務省の後輩だった吉田茂(後の首相) に対し、
伊庭翁に会うことを勧めたそうです。
そのとき河上は、次のような理由で 面会を勧めたといいます。

「君が翁に会って必ず得るに違いないと思うのは、  
 さながら春風のごとき感じである。  
 この温かな感じこそは、君が将来世に処し  
 人に対する上において、  
 いかばかりか資すること多きや、  
 はかり知れないものがあろうと」

まさしく伊庭の人生から見えてくるもの。
それは、世の中にある幾多の知恵でも腕力でも解決しない、
手のつけようがないものに対しての救い方の見本。

人を本当に動かすもの、
それは金でも力でも地位では決してなく、
事にあたる人間の品性・人格である、と。

(参考:住友グループ広報委員会資料)



お越しいただき、ありがとうございます。共感したら、Click me! 

0 件のコメント:

フォロワー

amazon