水曜日, 11月 21, 2007

「達磨さんと親しまれた名財政家に東北を想う」-高橋是清

秋時雨が降る日が続く中、今日、
仙台の出張から戻りました。

このところ出張の日々が続いています。
中国からの帰国後、岩手(花巻、北上、盛岡)に行き、
 長野(黒姫)、そして宮城(柴田、仙台)。
 来週は山梨(清里)、
 さらに再来週からは西アフリカのガーナへプロジェクト視察。


仙台には兄の家族が住んでおり、昨夜は新築したばかりの家に
泊まってきました。
岩手でも、宮城でも感じたことですが、私は東北地方に行くと
何か心の落ち着きを感じられます。

かつて星野道夫さんの友人であるボブ・サム氏と
話をする機会を得た際、私は氏との会話を通して、
自分が遥か昔に縄文の時代を生きていたことを知りました。

この縄文の時に、東北の地に生きていたのだと、
そう感じ、血が落ち着く安心感なのでしょう。


先週の「原敬」についてふれた日記でも書きましたが、
東北の地は盛岡に限らず多くの所から、すばらしい先人たちを
輩出してきています。

仙台の地には、「達磨さん」の愛称で、
庶民から親しまれた名財政家であった、高橋是清がいます。


仙台藩の下級武士の養子であった是清は、
幕末にアメリカへ留学していたことがあります。
藩から推薦されてのものでしたが、まだ11歳のときの留学。

アメリカでは留学とは程遠く、知らぬまま奴隷契約書に
サインさせられ、牧童や奴隷としての生活を強いられ、
いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど
の苦労を重ねたのだそうです。

後年、彼は「達磨さん」の愛称をもらいますが、
これは人相と七転八起の人生の両方から来ているものだそう。

明治元年(1868年)帰国するものの、維新後の新政府下では
戊辰戦争にて賊軍とされた仙台藩出身の是清には仕事がなく、
予備校の教師をしていたことがあります。

 ”「語学なんざ、ばかでもできるのだ」
  と、壇上の教師はいった。
  「にわとりがときをつくる。そっくりまねてみろ。
  馬鹿ほどうまいはずだ」
  といった。
  真之は苦笑して「ノボルさんよりもあしのほうがばかか」
  とささやいた。

  教師は、おもしろい男だった。
  この当時の日本人は英語という学科を畏敬し、
  ひどく高度なものにおもいがちであったのを、
  そのようなかたちで水をかけ、
  生徒に語学をなめさせることによって語学への恐怖感を
  とりのぞこうとした。

  教材は、パーレーの「万国史」だった。
  この教師は、一ページをつづけさまに読み、しかるのちに訳し、
  そのあとそのページを生徒に読ませ、もう一度生徒に訳させる。
  後年の語学教授法からみれば単純すぎるほどの教えかたであった。

  教師は、まるい顔をしていた。
  「まるでだるまさんじゃな」と子規がいったことが、
  たまたまこの教師の生涯のあだ名になった。
  教師は、高橋是清といった。”
               引用:「坂の上の雲」司馬遼太郎作


是清は、その後実力が世間に認められるようになり、
やがてその存在が政府の知るところとなります。
明治、大正、昭和の三代を通じての財政家であり、
大正十年には兇刃にたおれた原敬の後任として政友会総裁となり、
総理大臣に信任されます。

しかし何といっても、その生涯の特徴は何度も就いた
大蔵大臣としての業績。

日露戦争前後の日銀副総裁の時には、英国に駐在して戦費調達に奔走し、
苦心のすえ八億二千万円の外債募集に成功。

危機財政の切り抜けに何度も腕をふるい、
昭和9年の経済的な混乱時には乞われて81歳での大蔵大臣に就任。
「達磨さんが出てきたから日本はもう大丈夫だ」といわれたそう。

しかし達磨さんは、昭和11年83歳の時、
インフレを抑えるために軍事予算を縮小しようとしたことが
軍部の恨みを買い、2・26事件で赤坂の自宅にて兇弾に倒れました。
その後、日本は軍部の暴走を誰も止められず、戦争の波に漕ぎ出て
いきます。


是清は、暗さのまったくない人であったそうです。
写真を見ても思いますが非常に明るい感じの人であったのでしょう。
決して愚痴をこぼさず、日本という国を常に第一に考えながら
冷静に己が勤めを大事に果たしていったのでしょう。

司馬さんは、幕末から戊辰にかけてさんざんな目にあわされた
東北の地と人々のことをこう語っています。

「地勢的にも標高の高いところから西方の騒ぎをじっと見つめる。
 そうした余裕、冷静さがあったのでしょうか。
 冷静さというのは、知性ということでしょうね。
 
 その知性について、幕末の東北を考えてみると、
 のんびりしていました。
 西日本の大名があんなに革命化しているというのに、
 東北の大名は情報不足でした。
 結局、戊辰戦争でひどい目にあいました。

 しかしながら、東北人の先進性、スマートさ、ハイカラさを
 考えたときに、江戸中期以後の人文科学的な、あるいは
 自然科学的な思想というものが、東北の思想の中に
 ずっと伝統としてあったのかもしれないと思えてくるのです。


 幕末の英雄、吉田松陰は長州藩の江戸屋敷にいるとき、
 上役の許可が出ないものですから、脱藩して
 東北旅行に行きます。
 
 あとで勘弁してもらうのですが、
 本来脱藩はお家取り潰し、本人は切腹。
 しかし、それほどまでに行きたかった。

 彼は「東北遊日記」という著書に、
 奥州は英雄が出る所だと記しています。
 どういう英雄を指しているのかわかりませんが、
 奥州人の人柄の大きさがイメージとして
 彼の心の中にあったのでしょう。


 東北を一つの僻地として見る見方が伝統的にあります。
 世間にも、東北人自身にもあります。
 これが先入観だと思うのです。

 これを見直す時代がきましたね。
 東北をもっと掘り下げるべきです。
 東北をその独自性から見直す。

 世界史的な大きな目をもち、東北の人文の伝統を
 見直すべきなのです。」


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月曜日, 11月 19, 2007

「標高3700mの展望より持続可能な未来社会を望む(中国・雲南省・三江併流森林生態系保全)③」-☆森のクマさん☆

10月24日(水)
 朝方早く目が覚める。何時だろうと目覚ましに手を伸ばす。
 5時過ぎ、薪を割る音が聞こえてくる。
 おそらく郷長を務めるという張さんの息子の仕事であろう。

 7時に起床し、部屋の外に出る。
 朝の冷気が冷たく感じる。
 家人が気を利かせて、お湯で満たした大きなたらいを
 出してくれる。
 顔を洗うとさっぱり。昨日風呂に入れなかったので、顔を
 洗うだけでも気持ちがいい。
 今日は山小屋泊まりなので、風呂はやはりなしだろう。
 当たり前のように、毎日風呂に入れることの幸せを思う。

 朝食を摂り、9時過ぎに出発。
 これから4時間ほど山の中を歩く予定。
 10時間コースもありますが慣れていないので、こちらの
 コースがいいでしょうと言われる。
 もちろん否はない。
 かつては登山三昧の日を送っていた古き思い出でもあるが、
 現在の会社で働き始めてから早7年。
 暫く登山は無沙汰であったため、久しぶりの山行に不安と期待。

 しかし、張さんの話では、日本人がこの道を歩くのは
 貴方が初めてのはずだと言われて、元気が出る。
 天気は明朗快晴で湿度は高くなく、ちょうどいい陽気。
 しかし11月に入れば雪も降り始めてくるという。

 これから目指す金絲猴の観測ステーションは標高2700m。
 村の標高が2400mほどなので、さほど上がっていくものでは
 ないが、途中々での起伏がかなりあり、また渓流がいくつもある中、
 倒木を向こう側に倒しただけの橋をいくつも越えてゆく。

 針葉樹と広葉樹の混在した見事な森林である。
 途中には民家がぽつんと現れ、なぜこのような人里離れた所で
 暮らしているのだろう。
 生活必需品の買出しの時に最寄の村の売店まで
 歩いて2時間以上かかるような中で生活している老夫婦の人生
 を想った。

 道の途中で幾つもの巨樹を目にする。大人が3人腕をまわして
 ようやく届くほどの幹周と聳え立つ高さ。
 かつて林業の盛んな頃はこのような巨樹が相当切られ、
 市場に出ていった。

 これからこの地域で目指すのは、樹木の伐採ではなく、林産物を
 主にした収入確保である。
 同行の和氏や張さんなどスタッフ達は、零芝やその他の薬用価値の
 高いキノコ、植物の根などを教えてくれる。
 日本でも人気のマツタケも含めて、森林生態系の恩恵を活かしながら
 栽培していく試みも行っているという。
 
 休憩を挟みながら4時間ほど歩き、ようやく金絲猴の観測ステーション
 に到着。
 一足早く着いた村の若者2名が川で野菜を洗い、遅い昼食の準備を
 してくれていた。 
 昼食後、打ち合わせを行い、ゲストルームという隣接の小屋に行く。
 まだ建てられて間もないようであるが、建て付けはあまりよくなく、
 部屋の戸の開閉が難であった。

 夜になると、外では寒気を感じるようになってきた。
 日中と違い、これから温度はマイナスになるという。
 日本から持ってきた防寒着を着込むが、同行のスタッフや村の若者は
 せいぜい1枚上に羽織った程度である。
 ふだんの環境の違いなのだろうが、都会で空調の調整に慣れている
 こちらと彼らの逞しさの開きに自省させられる。
 
 夜10時頃就寝。電気のない真っ暗な部屋で寝袋に潜り込む。
 明日は、朝7時に出発し、標高3700mの展望点に行く。
 1時間半の急峻な登山を想像してか、寝袋の外から入る寒気に顔が
 寒くてかなかなか寝付けなかった。


10月25日(木)
 朝7時前に起床し、まだ真っ暗な中を登山開始。
 気温はマイナス5度。とにかく寒い。
 昨日、張さんが即席でこしらえてくれた竹の杖がとても役に立った。
 想像以上の急で狭く、霜で道が滑りやすく足場の悪い道。
 これから一気に1000mを登るのだ。
 
 息をこらしながら、体を持ち上げては登り、歩く。
 急登を続け、しばらく行くと道の間から周囲の山々が目に入ってきた。
 昇り始めた太陽に照らされて、美しい。
 紅葉の葉が朝日に輝いている。
 苦労したものに与えてくれる天の恵みに深く感謝である。

 美しい山脈の景色に励まされながら歩き続け、ようやく展望点と
 よばれる場所に到着。
 四方八方に広がる老君山の山脈の各山塊の頂上・山容や遠くに
 玉竜雪山も見える。 
 周囲の森林は、見渡すばかりのみごとな原生林。
 ここに金絲猴の群れが生存しているのだという。
 姿は見えねども、彼らの存在を確かに感じた。
 神の恩賜による造形の美。眩しい光と神々しい緑の有り難さ。
 ただひたすらに私は眺めるばかりであった。

 
 この老君山・生態村にて始まった
 森林生態系保全と地域住民の生活向上を目指した
 持続可能な未来社会づくりは、まだ第一歩である。

 しかし、この地をこうして訪れ、多くの関係者に出会う中で
 この土地で生き続けていくことを願う希望と熱意に会い、
 素晴しい大自然に触れることができた。 
 多くの協力者と共に、このプロジェクトは成功への道を歩んで
 いくことであろうと確信した。

10月28日(日)
 8日間に渡る視察を終え帰国。 


「私たちが日々関わる身近な自然の大切さとともに、
 なかなか見ることの出来ない、
 きっと一生行くことの出来ない遠い自然の
 大切さを想うのだ。
 そこにまだ残っているというだけで
 心を豊かにさせる、
 私たちの想像力と関係がある意識の中の
 内なる自然である」 
         星野道夫





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水曜日, 11月 14, 2007

「老子の山と森林渓谷に囲まれて生きてゆく先住民の村(中国・雲南省・三江併流森林生態系保全)②」-☆森のクマさん☆

10月23日(火)
 麗江官房飯店をパジェロにて出発し、一路「老君山」と最奥の村
 「生態村」を目指す。
 市街地を抜け、高山帯の道から山頂に白き雪を持って聳え立つ
 美しき玉竜雪山を見ながら、ひたすら先を目指す。

 かつてこの辺り一帯は、「ナシ古王国」の一部であったという。
 往古栄えていた王国の名残がどこかにないかと考えながら、
 車に揺られて移動を続ける。


 和氏の運転に、私の他に同乗者は麗江植物研究所の女性研究員。
 生態村の所属する郷(県の管轄単位)の役場にて、県の参議院議長や
 各部門部長などと合流し、一緒に「生態村」へ行き、昼食をとり
 懇談を行う。

 ナシ族自治県である国竜県にとって、森林生態系保全と県民の
 生活向上は第一の課題とされている。

 中国では98年6月から8月まで、長江・松花江・嫩江で大洪水が
 発生。この被害は、1666億元と巨額なものとなった。
 
 近年の目覚しい発展の一方で、森林乱伐、草原の出鱈目な放牧、
 魚介類の乱獲により、中国の自然生態系は悪化し続けている。
 持続可能な発展を目指し、北京の中央指導部は環境保全に関する
 一連の措置を発令、人々の環境保全の意識は徐々に高くなりつつ
 あるというが、やはり発展重視の中でどれだけ浸透しているのか
 不明である。
 
 この洪水後、国務院は長江上流の自然林の伐採を禁止する命令と共に、
 「天然林保護プロジェクト」(略称「天保プロジェクト」)を発した。

 雲南省は、その大半を高原と山地で覆われる土地。
 全省の94%は山地、その内の64%が林業用地である。

 60年代から、国家建設のため、林業部と雲南省林業庁は次々に、
 森林伐採、木材加工や輸送を行う林業工業企業を設立。
 70年代末期までに、地方の林業工業や木材加工企業が次々と興り、
 多くの市や県では、林業が基幹産業に発展し、「木材財政」と
 呼ばれるほどとなった。

 伐採禁止、新プロジェクトの発動。
 長江上流域では、これまで伐採に携わっていた人々が、
 植林を行い、保全の担い手に変わった。
 この方策により、中国の森林生態系や資源は保全され、
 長江の水源は維持されることが期待される。

 しかし、森林を生活の糧としてきた多くの人々は、収入が激減し
 生活できる見込みの薄くなった村を若者達は離れ始め、過疎化が
 進みつつある。

 他所から入ってきたものたちによる盗伐、野生動物や
 貴重な薬用植物・キノコの乱獲、なども見られ紛争の目も
 見られ始めている。

 長期的で俯瞰的な視点により、地域住民の生活と
 地元の森林生態系保全とをどのように両立させるのか、
 とても重く大きな課題である。


「生態村」は標高2400メートル程に位置する。
 村の範囲はとても広く、家々は離れて点在し、中には山奥にて
 生活する村人もいる。
 ここの暮らしは、30年ほど前とさほど変わらないのかもしれない。
 ただテレビが入り、映し出されるニュースや番組を通しての
 中国社会の著しい変貌ぶりに村の古老達は驚いていることだろうと
 思った。 

 その夜、私とAGAスタッフなど8名は村の旅館に宿泊。
 旅館といっても、細かく部屋が区切られた2階建ての建物に、
 土床の上にベッドが一つあり豆電球で照らされるだけの
 簡素な部屋の作りである。
 風呂はなく、トイレは外の星空を見ることのできる小屋にあった。

 食事は、離れの家の中。
 ここには懐かしい竈が2つあり、家人が大きな鉄鍋で様々な料理を
 拵えていた。
 家人は5人。家長であり、かつては猟師で現在は内外の研究者
 などを山にガイドする張さんとその妻、村の役人を務める息子夫婦に
 生後まもない可愛い赤ちゃんが居住している。

 張さんはかつて山に入り、金絲猴の猟も行っていたという。
 今は自然環境保全を大事に思い、ガイドをして研修者達に地元の
 森林の生態を説明する役に変わった。
 なぜ変わったのか私は聞いてみた。

 彼はこう語った。
 「かつて金絲猴を狩猟していた頃は、この猿がいくらでも
  山にいるものだと思っていたのです。
  他の動物たちにしても同様でした。

  ところがある時、この村を訪問した外国の研究者に言われたのです。

  「君達が捕っている金絲猴は、野生の生息数は3千頭ほどしか
   いない。雲南省の他、中国の湖北省、陜西省、甘粛省、四川省の
   高山帯などにしか見られず、絶滅がとても危惧されているとても
   貴重な生物なのだ」
と。

 それほど貴重な動物を捕ることに罪悪感を感じた張さんは、
 その後野生動物を保護する側に立場を変え、村での持続的な森林保全に
 協力するリーダーの一人となっている。


 張さんを含めよく働く家人に感心しながら、私はかつて日本でも
 このような素朴な生活が各地で見られていたのだと思いながら、
 社会の本当の豊かさ、人間の本当の幸せを考えさせられた。

 夕食後、焚き火に当たりながらお茶をご馳走になる。
 明日は、山の中をたっぷり4時間歩き、金絲猴の観測ステーションに
 泊まる予定だそうだ。
 老君山の各所に聳えるという巨樹達に思いを寄せながら、
 夜9時頃早々に床につく。


**************** 
「老君山(Laojun-shan Mts.)」
 老子=大上老君の名前を持つこの山は、大理州と麗江地区の境界に
 位置し、標高4,247mを頂点とする山塊で、自然保護区に指定されている。
 
「ナシ古王国」
 雲南、四川、チベットと隣接するある地域に、神秘につつまれた地が
 ある。この地に100年ほど前に踏み込んだ西洋の探検家や学者たちは
 ナシ古王国と呼んだ。
 その都、麗江はチョモランマ山脈の果て、青海・チベット高原の南を
 横断する山脈に沿った「三江併流」内にある。
 壮麗な山や雄大な川が流れ、神韻縹渺とした山々には麗江の大自然霊が
 宿り、ナシ人の勇敢かつ多情な魂を孕んで来たという。


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月曜日, 11月 12, 2007

「平民宰相と呼ばれた偉人に思う」-原敬

11月1日・2日と岩手に出張し、夜帰宅しました。

昨日はグループ会社での打ち合わせで花巻市に入り、
夜はおいしいものとお酒を北上市で楽しみ、
今日は県の社会福祉協議会の依頼で、同じ会社のCSR担当者と
盛岡で講演し、新幹線に乗って帰ってきたところです。

驚いたのは、帰りの東北新幹線を暢気にとらえていて、
前もってチケットを用意せずに駅へ着いてから買おうとした
ところ、みどりの窓口は大勢が行列していて、
新幹線の席予約表を見ると、乗ろうとしていた
18:40分発の”はやて”は満席。

困ったなとその下の”こまち”を見るとわずかに残席がありましたが、
はやてでは盛岡~東京が2時間半乗車に対して、
こまちでは3時間半もかかるのです。
次の19:40発とそれほど変わらないな、家につくのは22時半頃かなと
思いながら、自分の番になり、
窓口で「表示の通り変わりないですか?次のはやてに乗りたいのですが」
と聞いてみると
「ちょうど、キャンセルが出て2席空きました」とのこと。
よかった、これで家に21時半頃に帰れると喜び、帰宅したものです。


ちなみに今日のシンポジウムのテーマは、
「地域の資源を活かして企業が社会に貢献するために」
というものでした。

地域の資源ということで、思い浮かんだのは”人材”です。
岩手一県をもって四国に相当するほどの広さをもつだけでなく、
明治以降の日本における最大の人材輩出県です。

例えば
文学界には石川啄木、宮沢賢治、山口青邨、
政治家では米内光政、後藤新平、斉藤実、原敬、
学問思想では金田一京助、萬鉄五郎、新渡部稲造、など

盛岡は、日本の県庁所在地の中でもっとも美しい町といわれており、
樹木が多く目立ちます。
紅葉を見せている樹林に遠慮しながらコンクリとモルタルの建物が
ひっそりと息づき、郊外を北上川が流れ、岩手山が悠然と立っています。

私はこの地の偉人のうち、原敬という明治政府における最初の
平民宰相であり、旧南部藩という会津と並び、維新において
痛烈な戦後処置を受けた南部藩の義理、人情の厚さをその身に持った
偉大な人物のことを移動の車中で思い浮かべていました。


維新後の処置で、藩首相である楢山佐渡が盛岡北郊の報恩寺で切腹、
処刑された日、原敬は当時14歳。
この寺の塀に近づいて「満眼に悲涙をたたえて歩いた」といいます。

後年、原敬は最後の薩長藩閥内閣の寺内内閣を倒し、
大正7年、最初の政党内閣を立てます。

その前年、盛岡報恩寺で楢山佐渡以下の戊辰戦争殉難者の50年祭を
行い、みずから祭主になり
「戊辰戦争に賊も官もない。政見の違いがあったのみである。
 このことはすでに天下にあきらかであり、
 諸子もって瞑すべし」
という意味の激越な祭文をよみあげたといいます。

その3年後、原敬は兇刃にたおれ、その遺骸は血染めのフロック・コート
と共に盛岡城下に帰ってきました。
戊辰戦争は、原敬の死の帰郷のあたりでようやく終わったのでしょう。
(参考:司馬遼太郎「街道をゆく」)


*********************
 同志相謀り旧南部藩士戊辰殉難者五十年祭本日をもって挙行せらる。

 顧みるに、昔日もまた今日のごとく国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや。

 戊辰戦役は政見の異同のみ。当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり。

 その真相を語るものなり。

 今や国民聖明の澤に浴しこの事実天下に明らかなり。

 諸子もって瞑すべし。

 余たまたま郷にありこの祭典に列するの栄を荷う。

 すなわち赤誠を披瀝して諸子の霊に告ぐ。

    大正6年9月8日         旧藩の一人 原  敬


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土曜日, 11月 03, 2007

「強き思いと高き志は、いつしか持続可能な社会を創りあげる(中国・雲南省・三江併流森林生態系保全)①」-☆森のクマさん☆

「世界の霊長類の約3割が、絶滅の危機に直面している」  
IUCN(国際自然保護連合)の報告

21日から雲南省の昆明経由で麗江市に広がる世界自然遺産、
三江併流の森林生態系保全プロジェクト視察の旅から 昨日(28日)帰国し、
休養をとっていた中で目にしたニュース。

この報告によれば、 「現在394種が確認されている霊長類のうち114種が、  
深刻な森林破壊、違法な狩猟、ペット目的の捕獲、地球温暖化などの  
原因で、絶滅の恐れがあると指摘。  
特にアジアが深刻で、絶滅が心配される上位リスト25種中11種が、  
アジアに生息する霊長類。  ゴリラやオランウータンなど世界の霊長類の
約3割が絶滅の危機に直面している」。

人類を除く霊長類にとって、地球環境の悪化は危機的な事態にまで
進行しているのです。
彼らの生息域である森林の劣化・減少が原因であり、 私たち人間の
活動によるものとの認識に胸が痛みます。

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私が今回訪問した中国南西部の雲南省麗江市に広がる世界自然遺産、
三江併流。
このうち主なプロジェクト活動場所は、老君山地域や文筆山。
現地には、キンシコウ(金絲猴)という霊長類が生息していますが、
IUCNのレッドリストでは「絶滅の危険が増大している種」、 「絶滅危惧II類」に
分類されているとても貴重な生物です。

このキンシコウを含めて、様々な生物たちが生息する三江併流は、
「生物多様性の宝庫」と呼ばれ、世界自然遺産に登録されています。

****************

21日(日)
羽田から関空へ行き、約4時間のフライト。  
夜9時半頃、省都昆明の空港に到着。外は小雨混じりの天気。  
迎えの車に乗り込み、3車線を持つ無料の高速道路を走りながら  
初めて見る中国の夜の町並みを珍しく眺めていました。  

ホテルでチェックインし部屋に入り、翌朝早いので早々に床につきました。  
が・・・明日からの7日間、現場訪問し、関係者との交流や打ち合わせと
様々に予定されているスケジュールと初の中国に少し興奮してか、
しばらく寝付けない夜でした。

翌朝(22日(月))、目覚ましに気づき起床時間の6時と思いきや  
テレビをつけると5時の表示が・・・  
日本から持っていった目覚まし時計が電波時計であった為、  
前夜時刻調整して1時間前にしておいたのが元に戻って日本時間に  
なっていたのです。  
6時に朝食をとった後、現地関係者の車で空港へ。  
今朝も小雨模様。  

車内で、同乗のパートナー組織である  「アジア緑色文化国際交流
促進会(AGA)」の和代表に 「私は晴れ男だから、これからきっと
晴れてきますよ」と宣言。  これが見事に当たり!  

麗江に着いてから聞いてみると、前日まで10日間ずっと雨が  
降り続いていたのだそう。  
「雨降って、地固まる」、今回の視察も成功するように思えました。  

8時の飛行機で麗江空港へ移動、9時頃着。  
迎えに来ていたパジェロに乗り込み、市街地へ移動。  
中国では、助手席に主賓が乗るものだと言われて、以後  
ここが私の定席となりました。  

麗江市の標高は約2,400m。  
古い黒ずんだ瓦に白い土壁の家という古い町並みと、あちこちで  
開発された高層マンションという新しい町並みとの同居が見られます。    

1996年、M7という大地震に襲われますが、旧市街の木造家屋は  
瓦や土壁が落ちたものの、柱などの構造体にはほとんど被害がなかったそうで、
ほぼ1年で復興したのだとか。  

日本の古い寺社建築、例えば法隆寺が有名なものですが、  
それと同じように釘を使わずに組み立てられていたそうで、先人の  
自然を活かした技術力の技の立証といえます。  

97年、世界文化遺産に登録された旧市街の麗江古城は、  
名峰、玉龍雪山から伏流水を引き込んだ水路が市街のあちこちに  
張り巡らされ、冷たい澄んだ水が流れています。  
これに沿って石畳の細い路地が並び、周囲には昔ながら古い家屋が  
軒を接して建ち並び、古香古色、中国の古い建築物ばかりです。  

路面は麗江で生産した五花石が敷きつめられ、雨季は泥が無く、  
乾季は塵が無いそうです。  
城内には明清時代の石橋や石の鳥居が多くあり、  
古城は中心から四方に延び、大通りと路地は秩序よく並んでいます。    

昼間の文筆山での森林観察などを終え、夕方歓迎宴での乾杯  
(聞いてみると50度だという強い老酒)を頑張ってこなし、  
その後、夜の古城を少々千鳥足になり、案内を受けながら  
素晴らしい世界遺産の町並みを楽しむことができました。  

この麗江の地には、自然遺産の「三江併流」、  
文化遺産の「麗江古城」がありますが、実はもう一つの  
世界遺産を持っています。  
それは、世界記憶遺産であるトンパ文字。    

世界記憶遺産は、あまり知られていないのですが、  
危機に瀕した歴史的価値の高い記録遺産を最新デジタル技術を  
駆使して保全し、研究者や一般人に広く公開することを目的とした  
ユネスコの事業。  

トンパ文字またはトンバ文字(東巴文)とは、中国のチベット東部や  
雲南省北部に住む少数民族の一つ、納西(ナシ)族に伝わる、  
象形文字の一種。  
ナシ語の表記に用い、約1400の単字からなり語彙は豊富。  
現在、世界で唯一の「生きた象形文字」とされています。  

実は今回同行していただいた和さんも、納西族出身。  
かつて国内で日本語を学ばれ、苦労されて日本に留学し、  
日本に来てからも苦労と努力の中で東大に入り博士号をとられた  
素晴らしい方です。  
納西族であることに誇りをもち、地元の麗江に貢献したいと強く願っています。  

現在は、中国の科学者の最高機関である中国科学院の研究者として  
勤務されながらAGAの代表も勤められている親日家です。  
彼の夢は、地元の麗江において、生物多様性保全を柱とした地域社会の  
持続可能な循環型共生社会を創りあげていくこと。  

中国国内同様に、格差が大きく広がりつつある麗江の都市部と農村部に  
おいて人々が自然環境に対して恩恵の気持ちを持ち、  
各々が無理なく関わりながらこの社会創りに喜んで参加していくこと。  

私と同い年であり、同じ方向での夢・ビジョンを持つ彼の強い思いと  
志の高さに、何度も感心させられながらの視察となりました。


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