月曜日, 11月 12, 2007

「平民宰相と呼ばれた偉人に思う」-原敬

11月1日・2日と岩手に出張し、夜帰宅しました。

昨日はグループ会社での打ち合わせで花巻市に入り、
夜はおいしいものとお酒を北上市で楽しみ、
今日は県の社会福祉協議会の依頼で、同じ会社のCSR担当者と
盛岡で講演し、新幹線に乗って帰ってきたところです。

驚いたのは、帰りの東北新幹線を暢気にとらえていて、
前もってチケットを用意せずに駅へ着いてから買おうとした
ところ、みどりの窓口は大勢が行列していて、
新幹線の席予約表を見ると、乗ろうとしていた
18:40分発の”はやて”は満席。

困ったなとその下の”こまち”を見るとわずかに残席がありましたが、
はやてでは盛岡~東京が2時間半乗車に対して、
こまちでは3時間半もかかるのです。
次の19:40発とそれほど変わらないな、家につくのは22時半頃かなと
思いながら、自分の番になり、
窓口で「表示の通り変わりないですか?次のはやてに乗りたいのですが」
と聞いてみると
「ちょうど、キャンセルが出て2席空きました」とのこと。
よかった、これで家に21時半頃に帰れると喜び、帰宅したものです。


ちなみに今日のシンポジウムのテーマは、
「地域の資源を活かして企業が社会に貢献するために」
というものでした。

地域の資源ということで、思い浮かんだのは”人材”です。
岩手一県をもって四国に相当するほどの広さをもつだけでなく、
明治以降の日本における最大の人材輩出県です。

例えば
文学界には石川啄木、宮沢賢治、山口青邨、
政治家では米内光政、後藤新平、斉藤実、原敬、
学問思想では金田一京助、萬鉄五郎、新渡部稲造、など

盛岡は、日本の県庁所在地の中でもっとも美しい町といわれており、
樹木が多く目立ちます。
紅葉を見せている樹林に遠慮しながらコンクリとモルタルの建物が
ひっそりと息づき、郊外を北上川が流れ、岩手山が悠然と立っています。

私はこの地の偉人のうち、原敬という明治政府における最初の
平民宰相であり、旧南部藩という会津と並び、維新において
痛烈な戦後処置を受けた南部藩の義理、人情の厚さをその身に持った
偉大な人物のことを移動の車中で思い浮かべていました。


維新後の処置で、藩首相である楢山佐渡が盛岡北郊の報恩寺で切腹、
処刑された日、原敬は当時14歳。
この寺の塀に近づいて「満眼に悲涙をたたえて歩いた」といいます。

後年、原敬は最後の薩長藩閥内閣の寺内内閣を倒し、
大正7年、最初の政党内閣を立てます。

その前年、盛岡報恩寺で楢山佐渡以下の戊辰戦争殉難者の50年祭を
行い、みずから祭主になり
「戊辰戦争に賊も官もない。政見の違いがあったのみである。
 このことはすでに天下にあきらかであり、
 諸子もって瞑すべし」
という意味の激越な祭文をよみあげたといいます。

その3年後、原敬は兇刃にたおれ、その遺骸は血染めのフロック・コート
と共に盛岡城下に帰ってきました。
戊辰戦争は、原敬の死の帰郷のあたりでようやく終わったのでしょう。
(参考:司馬遼太郎「街道をゆく」)


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 同志相謀り旧南部藩士戊辰殉難者五十年祭本日をもって挙行せらる。

 顧みるに、昔日もまた今日のごとく国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや。

 戊辰戦役は政見の異同のみ。当時勝てば官軍負くれば賊との俗謡あり。

 その真相を語るものなり。

 今や国民聖明の澤に浴しこの事実天下に明らかなり。

 諸子もって瞑すべし。

 余たまたま郷にありこの祭典に列するの栄を荷う。

 すなわち赤誠を披瀝して諸子の霊に告ぐ。

    大正6年9月8日         旧藩の一人 原  敬


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