水曜日, 11月 21, 2007

「達磨さんと親しまれた名財政家に東北を想う」-高橋是清

秋時雨が降る日が続く中、今日、
仙台の出張から戻りました。

このところ出張の日々が続いています。
中国からの帰国後、岩手(花巻、北上、盛岡)に行き、
 長野(黒姫)、そして宮城(柴田、仙台)。
 来週は山梨(清里)、
 さらに再来週からは西アフリカのガーナへプロジェクト視察。


仙台には兄の家族が住んでおり、昨夜は新築したばかりの家に
泊まってきました。
岩手でも、宮城でも感じたことですが、私は東北地方に行くと
何か心の落ち着きを感じられます。

かつて星野道夫さんの友人であるボブ・サム氏と
話をする機会を得た際、私は氏との会話を通して、
自分が遥か昔に縄文の時代を生きていたことを知りました。

この縄文の時に、東北の地に生きていたのだと、
そう感じ、血が落ち着く安心感なのでしょう。


先週の「原敬」についてふれた日記でも書きましたが、
東北の地は盛岡に限らず多くの所から、すばらしい先人たちを
輩出してきています。

仙台の地には、「達磨さん」の愛称で、
庶民から親しまれた名財政家であった、高橋是清がいます。


仙台藩の下級武士の養子であった是清は、
幕末にアメリカへ留学していたことがあります。
藩から推薦されてのものでしたが、まだ11歳のときの留学。

アメリカでは留学とは程遠く、知らぬまま奴隷契約書に
サインさせられ、牧童や奴隷としての生活を強いられ、
いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど
の苦労を重ねたのだそうです。

後年、彼は「達磨さん」の愛称をもらいますが、
これは人相と七転八起の人生の両方から来ているものだそう。

明治元年(1868年)帰国するものの、維新後の新政府下では
戊辰戦争にて賊軍とされた仙台藩出身の是清には仕事がなく、
予備校の教師をしていたことがあります。

 ”「語学なんざ、ばかでもできるのだ」
  と、壇上の教師はいった。
  「にわとりがときをつくる。そっくりまねてみろ。
  馬鹿ほどうまいはずだ」
  といった。
  真之は苦笑して「ノボルさんよりもあしのほうがばかか」
  とささやいた。

  教師は、おもしろい男だった。
  この当時の日本人は英語という学科を畏敬し、
  ひどく高度なものにおもいがちであったのを、
  そのようなかたちで水をかけ、
  生徒に語学をなめさせることによって語学への恐怖感を
  とりのぞこうとした。

  教材は、パーレーの「万国史」だった。
  この教師は、一ページをつづけさまに読み、しかるのちに訳し、
  そのあとそのページを生徒に読ませ、もう一度生徒に訳させる。
  後年の語学教授法からみれば単純すぎるほどの教えかたであった。

  教師は、まるい顔をしていた。
  「まるでだるまさんじゃな」と子規がいったことが、
  たまたまこの教師の生涯のあだ名になった。
  教師は、高橋是清といった。”
               引用:「坂の上の雲」司馬遼太郎作


是清は、その後実力が世間に認められるようになり、
やがてその存在が政府の知るところとなります。
明治、大正、昭和の三代を通じての財政家であり、
大正十年には兇刃にたおれた原敬の後任として政友会総裁となり、
総理大臣に信任されます。

しかし何といっても、その生涯の特徴は何度も就いた
大蔵大臣としての業績。

日露戦争前後の日銀副総裁の時には、英国に駐在して戦費調達に奔走し、
苦心のすえ八億二千万円の外債募集に成功。

危機財政の切り抜けに何度も腕をふるい、
昭和9年の経済的な混乱時には乞われて81歳での大蔵大臣に就任。
「達磨さんが出てきたから日本はもう大丈夫だ」といわれたそう。

しかし達磨さんは、昭和11年83歳の時、
インフレを抑えるために軍事予算を縮小しようとしたことが
軍部の恨みを買い、2・26事件で赤坂の自宅にて兇弾に倒れました。
その後、日本は軍部の暴走を誰も止められず、戦争の波に漕ぎ出て
いきます。


是清は、暗さのまったくない人であったそうです。
写真を見ても思いますが非常に明るい感じの人であったのでしょう。
決して愚痴をこぼさず、日本という国を常に第一に考えながら
冷静に己が勤めを大事に果たしていったのでしょう。

司馬さんは、幕末から戊辰にかけてさんざんな目にあわされた
東北の地と人々のことをこう語っています。

「地勢的にも標高の高いところから西方の騒ぎをじっと見つめる。
 そうした余裕、冷静さがあったのでしょうか。
 冷静さというのは、知性ということでしょうね。
 
 その知性について、幕末の東北を考えてみると、
 のんびりしていました。
 西日本の大名があんなに革命化しているというのに、
 東北の大名は情報不足でした。
 結局、戊辰戦争でひどい目にあいました。

 しかしながら、東北人の先進性、スマートさ、ハイカラさを
 考えたときに、江戸中期以後の人文科学的な、あるいは
 自然科学的な思想というものが、東北の思想の中に
 ずっと伝統としてあったのかもしれないと思えてくるのです。


 幕末の英雄、吉田松陰は長州藩の江戸屋敷にいるとき、
 上役の許可が出ないものですから、脱藩して
 東北旅行に行きます。
 
 あとで勘弁してもらうのですが、
 本来脱藩はお家取り潰し、本人は切腹。
 しかし、それほどまでに行きたかった。

 彼は「東北遊日記」という著書に、
 奥州は英雄が出る所だと記しています。
 どういう英雄を指しているのかわかりませんが、
 奥州人の人柄の大きさがイメージとして
 彼の心の中にあったのでしょう。


 東北を一つの僻地として見る見方が伝統的にあります。
 世間にも、東北人自身にもあります。
 これが先入観だと思うのです。

 これを見直す時代がきましたね。
 東北をもっと掘り下げるべきです。
 東北をその独自性から見直す。

 世界史的な大きな目をもち、東北の人文の伝統を
 見直すべきなのです。」


お越しいただき、ありがとうございます。共感したら、Click me! 

0 件のコメント:

フォロワー

amazon