月曜日, 12月 17, 2007

「貧困の光景」-曽野綾子

先日は、ガーナの歴史について少し紹介しました。

今年独立50周年を迎えたガーナは、ここ数年の官から民への機能移管が
進んだ結果、経済成長し、教育に力が入るようになって、国全体に
活気が生まれてきていました。

翻って日本を見ると、社会の先行きに一抹の不安や不透明さを
感じてしまうのですが、
それは子供たちの学力低下、これに連動する心の教育の喪失から
くるものです。

一時的な知識詰め込みの教育の限界が、社会の諸々に現れてきており、
左脳偏りによる想像性が欠如したビジョンなき国の行く末が危惧されます。


曽野綾子さんはかつて次のようなことを言われたことがあるそうです。
 「アフリカには、生まれてこの方、
  平和というものをまだ一度も見たことがない人がいるんです。
  だから平和というものを想像することもできない。
  人間、見たこともないものは望むことはできないんです。
  そうじゃありませんか、ミセス曽野」
  (「貧困の光景」新潮社 より)


平和に恵まれ、物質文明の恩恵を大きく享受してきた日本人の
平和の有り難さとこれを支えているものに対する想像力の欠如。
これとは別の極にあるアフリカの戦乱に生きる人々が持てない
平和の想像。

世界の多くの国・場所で貧困という現実を様々に見てこられた
曽野さんの言葉を借りて、その実情を紹介します。

”食べるものがない、という人々の現実に関して、
 我々はほとんど無知だといってよい。
 初めに私は、貧困の定義を示しておこう。
 「貧困とは、その日、食べるものがない状態」を言う。

 貧困から来る飢餓には、解決のめどが立っていない。
 もともとその人が蓄財もなく特殊技能もなく、
 社会全体がまたどこを見廻しても金も物もないのだから、
 明日まで待てばどこかから食糧の差し入れがあるか、
 生活保護を受けられるようになるかもしれない、
 という期待もない。
 村全体も親戚も皆、ようやっと生きている、というような
 社会である。

 空腹と飢餓とは全く違う。
 空腹は一時的な状況をさすが、飢餓は社会的、経済的、かつ
 継続的状況だ。
 とにかく地域全体に食べ物がない。
 昨日もなかったし、明日も多分ないだろう。
 飢餓は地域全体の瀕死の病状である。
 中央政府も地方自治体も何らこうした飢餓を救済する方法を
 持たない。
 金も物も組織力も、何も持っていない自治体と役人たちなのだ。

 こうした飢餓を救うには、3つの方法しかない。
 空きっ腹をかかえて水でも飲んで寝るか、
 乞食をするか、盗むか、である。

 世界の多くの土地で、乞食は生業である。
 そのような現実も知らず、日本の新聞や出版社は、
 乞食という言葉は差別語だから使うな、と注意してくるところが
 ほとんどである。

 もし今皆が好きな「人道」とか「人権」を考えるなら、
 第一にやるべきことは、それらの現実がある、ということを
 認めることだ。
 だからこういう差別語にこだわる人々は、人道にも人権にも
 そっぽを向いた人たちである。

 
 飢餓地帯でなくとも、アフリカのパーティーでは、人々は
 黙々と食べる。
 会話をしながら食べるということはなく真剣に食べる。
 だから会場のご馳走はあっという間になくなる。
 肉の切り身ならそのまま、男達がポケットに入れて帰るからだ。
 家族思いなのである。
 服が汚れるだろうとか、食べ物にゴミがつくだろうという危惧は
 全く抱かない。

 救いというか、哀れというか、飢餓の子供は、あまり空腹を
 訴えない。
 これは私の予想外のことであった。
 日本のNGOが、彼らに粥状の食べ物を与える場面にもよく
 出会った。
 すると彼らは皿やコップを持ったまま、じっと見つめていたり、
 私たちを眺めたりする。
 つまりあまり食べたくないのに、食べ物を与えられたというふうに
 見えるのだ。

 エチオピアで聞いたもっとも心に残る話は、
 日本人の看護婦さんがマッチ棒のように四肢のやせた子に
 「もうちょっと待ってね。もうすぐ食べ物をあげますからね」
 と言うと、その子は、
 「食べ物はいりませんから、毛布をください」と
 答えたと言う話である。
 臨終が近いのであろう。
 消化の能力ももうとっくに退化して、ただ生命の残り火が
 あまりにも弱くしか燃えないのが辛かったとしか思えない。


 アフリカは暑い所だという先入観が日本人にはある。
 しかし温度を決める要素には土地の高度も大きく影響している。
 
 エチオピアの飢餓の年に私が現地で見たものは、
 飢餓だけでなく寒さに苦しんでいる土地の人たちだった。
 とにかく着るものがないのである。
 
 ある日、ボロボロの服を着た難民の少女が寒がっており、
 日本から送られてきた服をあげることになった。
 少女は10歳か12歳か、栄養状態が悪いし、互いに通じる言葉が
 ないから、聞く方法がない。

 巨大な木箱の中にある服の中から、少女の身体に合いそうなものを
 探した。
 私はその中を見て驚いた。
 そこには山のように服が詰め込まれていたが、貧しい少女にとって
 着心地のいいような実質的な服(Tシャツとか木綿のブラウス、
 ジーパン、ウールのカーディガンとか)はほんの僅かしかなかった。

 ほとんどは、女性用のスーツや子供のパーティドレスなどが
 信じられないほど多かった。
 
 日本人は難民救済に、自分の要らないものを捨てる代わりに
 送り出したのだ。
 自分の家でも始末に困るようなものを救援物資にすれば、
 厄介払いができる上に、何か人道的なことをしたような気分に
 なれる。

 エチオピアは物資に貧しく、日本は精神に貧しかった。
 せいぜい好意的に見ても、エチオピアの政治家は自国民を
 まともに食べさせるという基本的な能力において貧しく、
 日本人は貧困とはいかなるものかという客観的知識において
 貧しかった。
 どちらも貧しいことにかけてはいい勝負であった。

 貧しい暮らし、とは、つまり自然に抗することのない暮らしのこと
 である。
 雨が降れば洪水になり、日照りが続けば人々は日射病で死に、
 稲も野菜も枯死する。
 それは無策な社会構造だ。

 進歩した社会は、自然に抗して自然を制御するか、
 少なくとも調和するように自分と自然を欺く。

 しかし今日の日本の自然信奉者たちは、全くの手つかずの自然が
 いいと言う。
 しかしそう主張する人々は、最近の洪水や地震の頻発に遭うと
 なぜか沈黙してしまう。

 そういう人たちに私は言いたい。
 エチオピアの手つかずの自然は、人々を飢え死にさせるほど
 すばらしかったんですよ、
 というのがその言葉だ。"



この本の帯書きには、以下のような言葉が書かれています。

「ほんとうの「貧しさ」を知らない
 日本人の
 精神の「貧しさ」を問う」


実に本質を鋭く突いている言葉です。


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月曜日, 12月 10, 2007

「サンコファ(過去を現在や未来の糧として)~ガーナの歴史」-☆森のクマさん☆

2003年12月に初のアフリカ、ガーナの地を踏んでから 4年振りとなった今回のガーナ訪問。
(滞在11月25日~12月1日)

社会、政治、自然、伝統文化が日本とは全く異なるこの西アフリカの地は、
一歩足を踏み入れるとその異質さや多様な表情に深く魅せられます。

久しぶりに訪れた現地のNGO事務所では、
"アクワバ" 「おかえりなさい」という挨拶で暖かく迎えられました。

ガーナの持つ大きな魅力の一つ、それは、ガーナ国民の純正で、
人間的な暖かさです。
今回同行した日本人関係者の方達も、何度もそのことを口にしていました。

それとガーナ人の知的水準はとても高いものです。
53あるアフリカ諸国で大学の先生は、3割がガーナ人だそう。


帰国してから体調が回復してきた中で、2度目のガーナを振り返ると
日を追うごとに様々なことが増えて、頭の中に浮かびます。
「人間の尊厳」というキーワードが頭の中心を占める中で、これに
つながる様々なことを、アフリカの歴史や環境・文化と絡めて
これから日記の中でどのように表現していけるか。

第1回目となる今日は、ガーナの歴史的背景や国の基本的なことなどから
紹介してみましょう。


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ガーナは今年、独立50周年。
これを祝う横断幕が空港や首都アクラやケープコーストなど 都市の各所で見られた。

ガーナは、サハラ以南のアフリカで最初に独立した国。
独立の記念式典で、ンクルマ(初代大統領)は次の演説を行った。

「今日新しいアフリカが生まれた。    
それは、自らの闘いを引き受け、黒人は自らの問題を自身で解決することが
できるということを世界に示す新しいアフリカだ。  
我々は再び闘いに身を捧げる。  
アフリカ諸国解放の闘いだ。  
我々の独立はアフリカ大陸の完全解放に結びつかなければ無意味なのだ。」

その後、多くの国が独立を果たした。
しかし、多くのアフリカの国は貧困にあり、未だに内戦の銃声は止まず、
疲弊した多くの人々が今日の水と食糧を求めている。

この大陸の過酷な現状は、現在に始まったものではない。
欧州の王侯貴族、商人たちの人間的理性を失った物欲・金欲による
凄惨な強奪劇から生まれ、今日につながっているものなのだ。

かつてこの人類発祥の土地では、豊かな自然に包まれ、豊穣の実りを求めて
日々逞しく生きてきた黒い肌の人々。

幾多の王国が起き、豊かな金と深い森林に覆われた天然資源に恵まれて、
他国との交易を行ってきた。
事実ガーナの地は、1957年3月6日にイギリスの植民地支配下から
独立するまでは黄金海岸と呼ばれていたという。

15世紀に初めて黄金海岸と呼ばれる地域を訪れたヨーロッパ人は
ポルトガルの探検家たち。
この名前は、豊かな金と天然資源に恵まれているこの国を的確に表現している。
(金、ダイアモンド、マンガン、ボーキサイト、鉄鉱石、粘土や塩の  
堆積物などの鉱物資源.様々な種類の高品質熱帯硬材がとれる豊かで広大な森林)

15世紀、ポルトガルは現在のエルミナの地に貿易居住地を築き、
多くの金がこの地域からヨーロッパへ送られた。
16世紀に発展した奴隷貿易は、ヨーロッパの国々の興味をそそった。
デンマーク、イギリス、オランダ、スウェーデンなどのヨーロッパの
君主達は、この国の天然・人的資源を求めて大勢の探検家や商人を送り込む。

彼らはこの国の主権と支配をめぐって争い、交易所としても機能していた
城塞を競って築くようになった。
そのうちに金よりも奴隷貿易の方が儲かるようになり、
一部の城塞は新たに獲得した奴隷を船が到着するまで置いておく場として
利用されるようになった。

19世紀後半には、現地の商人はオランダ人とイギリス人のみになり、
その後オランダが撤退すると、イギリスが黄金海岸を植民地にした。    

ガーナには、欧州諸国がかつてアフリカを植民地統治していた際の  
城と要塞が保存されている。  
アフリカ初訪問の同行者に並んで私も2度目の訪問となったのが、  
そのうちの一つ、ケープコースト城。  
エルミナ城と並んで有名なこの城は、ヨーロッパ人によって  
15世紀に建設された多くの城や要塞の一つ。  

現在は、奴隷貿易の公立博物館となっており、人間が人間に対して  
行った非人間的な行為の証として後世に遺すことを目的にしている。
ポルトガル、オランダ、イギリスと征服者達が変わっていく中で、
元々の交易関係から人間を奴隷として商品にするという非人間的な
所為が行われた城・砦。

ガーナや他のアフリカ各地から何万、何十万人もの人々を繰り返し
連れてきては、インドや北米、中南米に船に乗せ運ぶまでの間、
この城の陽光がまともに当たらぬ真っ暗で冷たい石の部屋に閉じ込めて
いたという。 抵抗したものには鉄のおもりをつけた足かせをはめて
外に置いて、照り続ける強い太陽の元で衰弱させ、あるいは
真っ暗な部屋に 食事も水も一切与えず幽閉していたという。

部屋の中のみだけでなく、異国へ運ばれる船底の中でも、入れられた
アフリカの人々は膝を折り曲げて座らされた姿で何重にも人々が
折り重なった状態となり、用もその場であったという。
当然、異臭・病気が蔓延し、着くまでには相当の人々が病死した。

そして命をなんとか持ちえた人々には、その後縁もゆかりもない
新天地での過酷な重労働が待っていた。  
現在、米国をはじめとしてアフリカ以外の国に住む黒い肌の人々の多くは、
この奴隷貿易による強制移住させられた祖先を持つ人々。  
己のルーツに関心を持ち、アフリカを旅する人が増えつつあるという。


第二次大戦後、急速な政治的変化が起こる。
イギリスは、国家独立運動の盛り上がりを受け、独立国設立に向けて
徐々に政府の自主性を認めるようになる。

イギリス議会は、1957年にガーナ独立条例を制定し、
同年3月6日にガーナ国議会が独立を宣言。
ガーナはンクルマ氏の指導の元に、アフリカの植民地として
はじめての独立を果たす。
1960年にガーナは共和国となった。


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◎ガーナの基本情報  

・地勢   
面積は238,537k㎡ (日本の約3分の2)。   
地形は南岸は大西洋・ギニア湾に面し、東にトーゴ、   
西にコートジボヮ-ル共和国、北にブルキナ・ファソといずれも   
仏語圏の国々に囲まれている。
 (これらの国々ではカカオ農園を未だにフランス政府が所有している)  

・気候
 年間を通じ平均27度、平均湿度80%と高温多湿。   
乾季(11月~3月)と雨季(4月から8月)とに分かれる。   
11月~2月には、ハマターンと呼ばれるサハラ砂漠から砂を   
含んだ風が吹き寄せるので、どんよりした埃っぽい日が続く。   
2月から4月は雨も無く太陽が直接照りつける猛暑となる。   
雨季は、湿度はやや高くなり、乾季と比べると気温が下がり、   
凌ぎやすくなる。  

・国旗   
赤、黄、緑の三本の線の上に黒い星をあしらった国旗。   
赤は独立のためにながされた血を、   
黄は金に代表される豊かな鉱物資源を、   
緑は豊かな森林を表し、   
黒い星は植民地支配からのアフリカの独立を象徴している。  

・人口   
ガーナ共和国の人口は約1890万人(2000年国勢調査)   
北部はサバンナ地帯で、カカオ生産には向かず低所得。   
南部は森林地帯が残り、経済的にも発展しつつある。  

・民族   
アシャンティ族(クマシ周辺)、ガ族(アクラ周辺)、   
エヴェ族(ボルタ地域)、ダゴンバ族・マンプルシ族・   
ゴンジャ族(いずれも北部)等、   
100以上の部族が存在するといわれている。  

・宗教   
全人口の約7割がキリスト教、約2割がイスラム教を信仰。   
他に伝統宗教等様々な民族宗教がある。  

・経済   
金、カカオを中心とする貿易や観光が主。   
特にカカオは、ガーナの経済の根幹であり続けている。   
アフリカでは南アフリカ以外の国は、基本的に農業国である。   

・アディンクラ   
伝統的紋様のこと。   
各紋様には意味があり、紋様はその意味にふさわしい場面で使われる。   
鳥が後ろを振り返っているさまをモチーフにした「サンコファ」は   
「戻っていって得よ」という意味で、過去の出来事や経験を学ぶことに
よって現在や未来の糧とせよ、という教訓を意味する。  

・時間(グリニッジ標準時間を採用)   
日本との時差は-9時間


アフリカ大陸中を独立の歓喜で沸かせ、未来への希望の象徴であったガーナ独立。
しかしその後の独立ガーナの歩みは、皮肉にもアフリカ諸国の開発と
国家建設の困難さを見せつける象徴ともなった。

政治混乱と経済停滞の悪循環が続き、幾度かのクーデーターによる軍政。
その後、2000年に選挙による政権交代が初めて行われた。
これは、長期政権であった前政権からの交代が民主的に行われたもので、
ガーナが政治上の大きな試練を経てのものであると評価できる。

独立50周年を迎えたガーナは、同時に新大統領の選挙キャンペーン中 でもあった。
「教育、農業、医療が国の基本」を大事に国の発展を進めてきたクフォー大統領。
民間セクターの活用と行政サポートによる発展が順調に進む中、
海外からの投資も積極的に行われつつある。

一方で拡がりつつある所得格差。
都市部には富裕層と低所得層の生活の違いが顕著に現れてきている。

彼とその後の新大統領が、今後この国の持続的な発展をどう導いていくか
期待している。


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日曜日, 12月 09, 2007

「人間の尊厳~ガーナから帰国して」-☆森のクマさん☆

3日、ガーナより無事帰国しました。

ガーナの気温は、30度。
途中経由のオランダ・アムステルダムは10度。
そして日本・千葉に帰国すると13度。

アムスからの帰り、飛行機ではいつものように狭い機内の席に
眠れず。
幸い、行きの飛行機便とは違い、一席毎にディスプレイ画面が
あったので、映画を3本観て何とか11時間余りを過ごす。

昨日は妻が駅に車で迎えに来てくれて、帰宅後は
ゆっくりお風呂に。
ガーナではインフラの遅れで、外国人用ホテルでさえも
時々断水があり、また水シャワーがほとんどだったので、
本当に幸せな気分に浸れました。

日本にいると当たり前に思えることは、
他国ではとても幸せなことが多いです。

その後、幼稚園から帰ってくる最愛の息子を迎えに。
バスから降りてきた息子は、久しぶりに見る父を
本当に幸せそのものの表情で歓迎してくれました。
私は思い出すたびに会いたかった息子を、しっかりと抱きしめました。

旅の疲れが出て、3日は夜7時頃から今朝の5時半まで寝、
朝8時頃から夕方までもずっと寝ていました。
その後も息子に添い寝しながらまた少し寝てしまいました。
自分でも身体が疲れているのがよくわかります。


ガーナでの話はこれからゆっくりと日記に書いていくつもりです。

4年ぶりとなった今回の視察訪問では、いくつかのことが印象に
残りました。

都市の発展振りに目を見張るものがあり、その分の格差もはっきり
出ています。

一方で私が訪れた持続的なカカオ生産を行っている
農村コミュニティの人々は、プロジェクトに参加したことで、
自然環境を保全しながら収穫があがり生活が確実に
向上していました。
また、これを支える様々な組織や人々の信頼の輪も厚いものと
なっています。

今回、ガーナに行って様々な人々とやりとりを行い、
彼らの人間的なすばらしさにふれながら、
人間の尊厳”という言葉が自分の頭の中で
日毎に強くなっていきました。
この理由は、いずれ日記で書いてゆきます。


明日は、久しぶりの出社。
メールが相当たまっていることでしょう。
ガーナの森や子供たちのことを愛しく想いながら、
頑張ることとしましょう!


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