土曜日, 2月 16, 2008

「風花の中にいのちの全体性を感じる」-玄侑宋久

先日の休みの日のことです。

冬の朝、カーテンを開けると、窓硝子越しに
雪が舞っている姿が見えます。

一面の白い世界です。
あ々、今日は休みの日でよかった。という少し安堵の気持ちで
このいきなりの昨日とは異なる外の景色を見ました。

まだ今は寝ている息子が、これから暖かな布団から起き出して、
この白景色を見たらきっと驚き、そして喜ぶことでしょう。

「霜やけの手を吹いてやる雪まろげ」

子供にとっての雪は、天の与えてくれた一時の遊びもの。
私も子供のとき、雪が降ると意気揚々と外に出ては、
雪をころころと転がして、だんだんと大きな塊にすることを
楽しんだものです。

無心にただ雪に触れ遊ぶ。
雪をただひたすらに転がす。
塊をただただ大きくする。


そんなことを思い、雪が深深と降る様を見ながら、
数週間前に読んだ「般若心経」(玄侑宋久著)に書かれていたことを
想い出しました。

「般若波羅蜜多」という普遍的真理であり、
全体が一つの「陀羅尼」である。

この「陀羅尼」とは「総持」の意であり、
これは普遍的な真理を理解し、記憶し、それを保つ能力を
「総て持つ(すべてたもつ)」ことが大事。

すなわち、「総持」とは「全体」を持つこと。
理解し、記憶し、そして保つこと。

こう単純に書くと、できそうに見えるのですが、普通の人間
とりわけ大人にはこれを同時に行うことはそう簡単ではありません。

玄侑氏が言うには、
 理解から記憶に進む際に、
 断片的な知識を記憶するのは「私」であり、
 全体をまるまる記憶するのは「私」ではないそう。

 いったん記憶された音の連なりは、一切の思考を伴わずに出てくる。
 あらゆる思考はその表出を邪魔する働きしかない。

 全体がまるごと記憶され、それは再生される度に「識」を
 浄化していくのではないか。

 再生しながらその力を保つことで、
 「識」そのものも「空じられる」と考えてもいい。

 断片化された世界を安易に「全体」と勘違いし、
 知的に明確に知ることでやすらぎでなく「単なる満足」に
 陥いる危険性を持つ「私」。

 そして長年、世界の中心であるかのような意識をもちつづけた
 「私」の殻は、相当に強固である。

 こうして「人間の知恵の限界を知る」ということが大切なこと。

 「花」も「私」も自立的でも恒久的でもなく、
 隔てなく融合しながら同じ「いのち」の「縁起」のなかにあることを
 感じ取る。

 これが、「全体」との本当の関係性のなかで、自分が再生していく道。


ところで、先月5歳になった息子は、数週間で「般若心経」を
暗唱できるようになりました。

子供の持つ本来制限のなき能力の広さをあらためて知るとともに
無意識に社会に適合しようとして、その能力に枠をはめ込もうとする
大人社会を自省させられます。


弘法大師は、「般若心経秘鍵」の中で
「それ仏法遙かにあらず、
 心中にして即ち近し、真如外にあらず」

と説かれています。

「本来の自分、ありのままの自分」を大事にして、
「自分自身に帰る」ことが、生の真のやすらぎを得られること

なのでしょうね。

雪の風花を無心に見ながら、そんなことを思いました。


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「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。
是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。
是故空中無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法。
無眼界、乃至無意識界。無無明亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽。
無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、
心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、
能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。
般若心経


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