土曜日, 2月 23, 2008

「如月の夜に月を見上げて」-城山三郎

一週間前のことです。
その日は午後から仕事、夜は所用で出かけており、
帰宅したのは夜10時前でした。

駅からの帰路、人気のない道を歩きながら
ふと見上げると冬の夜空に月が浮かんでいます。

少し前に、上弦の月だったなあと思いながら、
何か今日一日の心の平安を有り難く思えるような気持ち
にさせてくれるひとときの時間。


昨年亡くなられた城山三郎氏のエッセイの中に
「月見て歩け」という文があったことを思い出しました。

”所用のため、大阪へ日帰りした。
 早朝、家を出て駅に向かうと、ほの白く透き通った月が、
 歩いていく先の西空にかかっていた。

 帰りは、逆に、東の空に、血の色を帯びた月が待っていた。
 満月がやや欠けたばかりのまるい月である。

 早朝の月も、夜の月も、それぞれ美しく、
 それぞれ何か語りかけてくる。

 わたしは月を仰ぎ、月から目を離さず歩いた。
 いい気分であった。
 いろいろ考えねばならぬことや迷っていることもあるのだが、
 すべてが消えてしまって、生まれたばかりの心に
 戻る気がする。

 月を見ているだけで、いつかはいい知恵や新しい元気が
 沸いてきそうな気がするのだ。


 地上の花々が終わる季節になると、代わって月や空が
 きれいになる。
 空がかすむ季節になると、地上の花々が咲き競うようになる。
 この世は、うまい具合に満ちている。

 それにしても花を賞でるほど、わたしたちは空を見ることが
 ないのではないか。
 空や雲のたたずまいをじっくり仰ぎ見ることが少なすぎるのでは
 ないか。
 

 空を見上げることは、浮き世の思いをしばし忘れることである。
 もともと忘れるというのは、「人間の自己防衛の機能」なのに、
 現代人は「忘れることを忘れたのではないか」。

 ついでにいえば、空には仕切りがない。
 心の中にも仕切りのないのがいい。

 年中行事といえば、いまは盆踊りのような騒々しいものだけが
 幅をきかせている。
 多くの人々は、いよいよ画一化され、
 みんなといっしょでなければ生きられなくなっていく。

 それに反し、月見はひとりで静かに宇宙に向かい合う。
 弱々しい大衆の心とはちがった何かがそこには
 生まれてくるはずである。”


数々の名作を送り出された氏の言葉には、こうもあります。

”悠久の大自然の営みを前に人生など、
 波しぶきのひとしずくにも過ぎまい。

 そのひとしずくではあっても、
 いや、ひとしずくであるがゆえに、
 ひとは、
 短いおのが人生をわがものとして
 大切に過ごすほかはない。
              (わたしの情報日記より)”


月に励まされ、昨日より、今日より、明日を思う気持ちに
させてくれる珠玉の言葉です。


お越しいただき、ありがとうございます。共感したら、Click me! 

0 件のコメント:

フォロワー

amazon