水曜日, 5月 28, 2008

「ものづくりは創造、価値を決めるのは時間」-三代徳田八十吉

先日の晩、ある人間国宝の方を紹介する番組を見ました。

三代目徳田八十吉氏。

現代九谷焼の彩りに新しい感覚を吹き込んだ氏の「耀彩」。
耀彩とは「光り輝く色という意味」
多彩な釉薬を重ね合わせることで、段階的に色彩を変化させるという
独特の技法。

耀彩の色彩は、焼成温度によっても微妙に変化する。
ふつう上絵窯では焼成温度は700から800℃までといわれるが、
徳田氏は1000℃を超える高温で焼くことで釉薬を溶かし、
混ざり合わすことで耀彩を創り出しています。

初代八十吉より伝授された350年前の古九谷の色と、伝統を受け継ぎ
新しいものに取り組む精神が深い輝きを放つものです。


三代八十吉の陶房は、四季を映す梅ノ木山と郷谷川の流れ、
美しい自然に恵まれた石川県小松市金平町にある。

古九谷は江戸時代初期に焼かれた初期の九谷焼。
光り輝く透き通った色調は、計算しつくされた多彩な彩色をした上に、
千度以上の高温で焼くことにより初めてできるもの。

加賀古九谷の中の青手古久谷は、赤を使わず青・黄・紫・紺青の4彩を
用い、特に輝くような翠は好んで使われている。

古に埋もれていたこの技法は、九谷焼を志すものの多くが
その色を再現しようと長年努力してきたが難しいものであった。

明治時代、初代八十吉は、誰も再現することのできなかった
古九谷の五彩を再現することに成功。
初代は、優れた九谷焼の技術が認められ、無形文化財に指定された。

釉薬の調合は秘伝。
天秤秤で1/100gの誤差もないように計り、調合する。
顔料の組み合わせや、調合の量により、様々な緑色の釉薬を作る。
初代は秘伝の色を全て伝えぬまま他界した。

初代が口癖のように言った
「色のことは誰にも言うめえぞ」という言葉。
三代もそれをかたくなに守っている。

色の調合の秘伝こそが、九谷焼の全てである。
昭和31年初代が亡くなる半年前、三代は病床の初代から色の秘伝を
教わった。当時三代は若干22歳。
半年という期間は、あまりにも短く12通りの調合を学ぶだけに終わった。

九谷焼にはもっと多く色がある。
それを学びきる前に初代を亡くし、三代は途方に暮れた。

ある日仏壇の前で、お経をあげていた時に目に入った
「帰命尽十方無碍光如来」
「どこかで聞いたことがある」と三代は思った。

そして初代が残した数冊の手帳の中に、
暗号のように残された文字に思い当たった。
誰にもわからないように、10文字ある経のそれぞれの字の1部を使って、
1~10の文字を表したのだ。
教わった12色の色を数字に当てはめていき、
ついには100色以上あった初代の色を全て解き明かしたのだった。

その時から三代は、九谷焼製作を運命として受け入れ、
製作に命をかけるようになったという。

しかし、三代八十吉は、九谷焼の技術で最高のものをもつ
祖父初代八十吉との比較対象に若い頃苦しみます。
九谷をやっている限り祖父の知識、技術と比較され続けると。

ある時、祖父の親しい友人であった、洋画家の中村研一氏から
こう言われました。

「九谷のど真ん中にいて、毎日のように九谷を見ている。
 それでいて九谷を作りたくないというのは、
 九谷を作っていく素質をもっている。
 だから自分の作りたい九谷を作ってみればいい。」

三代目八十吉として、自分の九谷を作る決心を固めた時。

そして、辿り着いた伝統の概念は、これまでの九谷の精神を
受け継ぎながら、自分らしい新しいものを作っていくということ。


耀彩は、色絵の具を使って特定の絵や模様を描くだけでなく、
色が作り出す模様が表現するという色主体の新しい概念があります。

今までの九谷の上絵ではなく、自分にあった九谷を作るという思いで
挑戦してきた三代八十吉。

二十代の頃、宝石の澄んだ色と輝きに魅せられ、
古九谷の色を使って宝石を表現したいと考えるようになった。

成分を微調整した数十種類もの色釉を用い、グラデーションを創造。
乱反射を防ぐ磨きの工程を丁寧に行い、輝くような光彩を生み出した。
しかし、発表当時は作品を否定する声も聞かれた。

「こんなものは九谷焼じゃないといわれましたよ。
 しかし、色絵に秀でた窯に生まれたからには、形ではなく
 色彩の新しい表現を追求したかった。
 30歳を過ぎた頃から、まわりの反応は変化してきました」

耀彩は九谷焼の新しい技法として認められ、
高い評価を受けるようになった。

若手作家にはよく次のようなアドバイスをする。
「新しいことをやれとはいわない。
 好きなことをやればいい」


「アートは創造、
 その価値を決めるのは時間だ」


三代徳田八十吉の作品は、「創造すること」をものづくりの根本に
すえた考え方から生まれています。

「人まねではないものを創ることに意味がある」
という信念を貫き、新しい道を切り開いた三代八十吉の言葉。
後進の作家たちに大きな力を与えていくことでしょう。


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土曜日, 5月 10, 2008

「人間は、必ず一人には一人の光がある」-藤尾秀昭

大型連休の前半、妻と息子と私の家族3人で
長野へ小旅行に出かけました。

戸隠神社、アファンの森、小布施、善光寺といった
各所をまわり、その土地土地でのさまざまな出会いや縁に
心豊かになりました。


縁について、藤尾秀昭さんが本の中で紹介していた、
鈴木秀子先生から聞いたというすばらしいお話。

「その先生が5年生の担任になった時、
 一人、服装が不潔でだらしなく、
 どうしても好きになれない少年がいた。

 中間記録に先生は少年の悪いところばかりを
 記入するようになっていた。

 ある時、少年の1年生からの記録が目に留まった。

 「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。
  勉強も良くでき、将来が楽しみ」とある。
 
 間違いだ。他の記録に違いない。
 先生はそう思った。

 2年生になると、
 「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」
 と書かれていた。

 3年生では「母親の病気が悪くなり、疲れていて、
 教室で居眠りする」。

 3年生後半の記録には「母親が死亡。希望を失い悲しんでいる」
 とあり、

 4年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症になり、
 子どもに暴力をふるう」。


 先生の胸に激しい痛みが走った。
 だめと決めつけていた子が突然、
 深い悲しみを生き抜いている生身の人間として
 自分の前に立ち現れてきたのだ。

 先生にとって目を開かれた瞬間であった。


 放課後、先生は少年に声をかけた。
 「先生は夕方まで教室で仕事をするから、
  あなたも勉強していかない?
  分からないところは教えてあげるから」。

 少年は初めて笑顔を見せた。

 それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。
 
 授業で少年が初めて手をあげた時、
 先生に大きな喜びがわき起こった。
 
 少年は自信を持ち始めていた。


 クリスマスの午後だった。
 少年が小さな包みを先生の胸に押し付けてきた。
 あとで開けてみると、香水の瓶だった。
 亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。

 先生はその1滴を付け、夕暮れに少年の家を訪ねた。
 雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、
 気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。

 「ああ、お母さんの匂い!きょうはすてきなクリスマスだ」

 6年生では先生は少年の担任ではなくなった。

 卒業の時、先生に少年から1枚のカードが届いた。
 「先生は僕のお母さんのようです。
  そして、いままで出会った中で一番すばらしい先生でした」


 それから6年。
 またカードが届いた。

 「明日は高校の卒業式です。
  僕は5年生で先生に担当してもらってとても幸せでした。
  おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます。」


 10年を経て、また、カードがきた。

 そこには先生と出会えたことへの感謝と
 父親にたたかれた体験があるから
 患者の痛みが分かる医者になれると記され、
 こうしめくくられていた。

 「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。
  あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、
  神様のように感じます。
  大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、
  5年生の時に担任してくださった先生です」


 そして1年。
 届いたカードは結婚式の招待状だった。
 「母の席に座ってください」と一行、書き添えられていた。 」


 藤尾さんはこの話に
 「たった1年間の担任の先生との縁。
  その縁に少年は無限の光を見出し、
  それを拠り所として、それからの人生を生きた。
  ここにこの少年のすばらしさがある。

  人は誰でも無数の縁の中に生きている。
  無数の縁に育まれ、人はその人生を開花させていく。
  大事なのは、与えられた縁をどういかすかである。」

 と語っている。 


「人間は、必ず一人には一人の光がある」という先達の
言葉があります。

真の光をどのように放てるか。

それは、自己の自覚と行動次第によるとは思いますが、
人生において与えられた縁を活かすということを相重ねながら
心がけていくことが大切なのでしょう。




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