火曜日, 1月 20, 2009

「自分自身よりも大きな理想を追いかけたときに初めて、本当の可能性に気づく」-バラク・オバマ


20日は、米国の新大統領であるバラク・オバマ氏の就任日。
世界中の人々が高い関心を持っていることでしょう。
「キング牧師記念日」である1月19日、氏は地域社会での
奉仕活動に加わるよう国民に呼び掛け、
自らはワシントンのホームレス支援施設でボランティアの人々と共に壁の塗装を行ったそうです。

約1年前の昨年2月10日、アブラハム・リンカーンに縁の
深いイリノイ州で大統領選の出馬宣言を行ったオバマ氏は、
集まった群衆にこう語りかけました。
『あなたがたは、この国の未来を信じるからここへ来たのです。
 私たちは一つの国民になり、可能性を切り開き、
 もっと完璧な連帯を築くことができると信じているはずです』

そして、新世代が奉仕への呼びかけに応えるときがきたと
訴えたのです。
『この選挙運動は、市民であることの意味を定義し直すもので
 なければなりません。
 力を合わせて何かを成し遂げるものでなければならないのです』



私はこの演説の言葉を聞いてから、旧世代の政治家とはあきらかに
異なる強いリーダーシップに期待を持ち、彼の言う「変革」
未来への望みを持ちたいと想い、大統領に就くことを願ってきました。

オバマ氏は、彼が受け継いだユニークなアイデンティティ-・・・
実父はケニア出身、実母はカンザス出身、幼ない頃に実父と別れ、
ハワイで少年時代を過ごし、6歳から10歳までは義父の住む
インドネシアで過ごし、大人になってからはシカゴで過ごすという
実に複雑で多様な社会の経験をしています。

シカゴでは、大学卒業後にコミュニテイ・オーガナイザーの職に
就きます。
『その仕事は、私の人間としての成長に役立った。
 牧師や専門家でない普通の人々と仕事をした経験を通して
 私は社会奉仕活動のリーダーになる決意を深めた・・・
 私の人種的アイデンティティ-が強まったし、
 普通の人にも普通以上のことができる能力があると
 信じる気持ちも確固たるものになった』

氏はここで一所懸命に活動を行い、最初は関心を持たなかった
地域の人々から次第に高い信頼を得ていきます。
一緒に働いたことのある人たちは、
オバマ氏は献身的で、勤勉で、知的で、人の心を動かし、
聞き上手であったと語っています。

そしてここでの経験が政治家としての考え方を形成したのです。
この仕事から得られた多くのテーマ-
『さまざまな意見の共通の土台を見出す努力、普通の市民を信じる
 気持ち、問題を検証して勝ち目のある立場に持ち込みたいと願う
 気持ち』
-は大統領選で多くの国民から共感を得られました。

07年5月、サウスニューハンプシャー大学の卒業式の講演で
オバマ氏は奉仕への呼びかけを行っています。

『この国では、連邦政府の赤字について多くの議論がなされています。
 しかし、私たちがすべき議論は、思いやりの赤字についてでは
 ないでしょうか。
 すなわち相手の立場になって考える能力や、自分達とは違う人々-
 飢えた子ども達、解雇された労働者、あなたの寮の部屋を掃除して
 くれる移民女性 の目を通して世界を見る能力の欠如についてです。

 歳を重ねると、この思いやりという資質を養うことは、
 容易になるどころか難しくなります。
 現実の世界では、コミュニティへの奉仕は義務づけられている
 わけではありません。
 他人を思いやることは、強制されはしないのです。
 自分とまったく同質な人々が集まる地区に住み、
 皆と同じ学校に子どもを通わせ、自分達の小さな輪の中で起きる
 出来事のみに関心を示して生きる、それもその人の自由ですから。

 しかし、関心の間口を狭めずに広げるよう心がけてください。
 それは、自分よりも恵まれない人々に対して義務があるからでは
 ありません。たしかにその義務はありますが。
 いまの自分に到達する過程で力を貸してくれた人々全員に恩が
 あるからでがありません。たしかに恩はありますが。

 それは自分自身に対する義務だからです。
 また、私たち一人ひとりの救済が、全員の救済にかかっているから
 なのです。
 自分自身よりも大きな理想を追いかけたときに初めて、
 自分の本当の可能性に気づき、
 そして成熟した人間になれるからなのです。』

あと3時間後、オバマ氏はどのような就任演説を言うでしょうか。
混迷する世界経済、不安定な社会情勢、強く望まれる世界平和への
期待の中、彼は現実の世界に真正面に向き合いながら、
こうあってほしいと思う世界を求め続けることでしょう。

そして私たちもこれから彼と共に持続可能で明るい未来社会を
創造していけるはずです。
彼が言い続けてきた言葉、『 Yes, We can ! 』と共に。


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月曜日, 1月 12, 2009

「自然のなかにあるさまざまな時間を感じる」-中村桂子


昨晩は満月が夜空にとてもきれいに輝いて見えました。
寒いのを忘れて、しばしうっとりと魅せられてしまう力を
持っていました。
月を見ている自分と、地球の多くを照らしている月と。
この瞬間に自分と月との間には境がなく、一体化しています。

そしてこの月は、これまでに地球に存在し生成してきた幾多の生命を
見つめてきたことでしょう。
悠久というとてつも長いさまざまな時間が流れてきたことを
感じさせられます。

生命誌の研究に取り組まれてきた中村桂子さんは
こう語っています。

『いまの世の中は効率第一、時間も時計の示している時間
 だけですよね。
 だから何時何分に会いましょうとか、五分でやりましょうとか。
 それはきめないと世の中動きませんから、この時間ももちろん
 大切ですし、速くやる必要のあることもあるんですけれど、
 一本の木が立っていたときに、
 この木がここまでなるのに何年かかっただろうと思うと、
 百年だったり五百年だったりするわけですね。

 そのことを感じないと、ここに家をつくろうと思うと、
 ぱっと伐ってしまうわけでしょう。
 私の家の近くでも、昨日まですてきな雑木林だと思っていた
 ところが、今日歩いてみたら、 
 一本も樹が残っていない平らな宅地になっているということが
 しばしば起きています。
 しかも、その土地を買った人はまた小さな苗を植えるのです。
 伐らずにそのまま売れば買った人は、一本一本を大事に考えて
 家を建てるでしょう。
 この木は何十年立ってるかと思うと、これを生かしてつくる方法は
 ないだろうかと考えると思うんです。

 しかもそれを生かして建てた方が質の高い生活環境になる。
 実は、百年、二百年という時間は、身の回りにたくさんあるのに
 気づかないのです。
 そういう風に考えると、長い時間が身近になるはずです。 
 私が生きものは四十億年も続いているんですよというと、
 そんな時間考えられませんと言われてしまうんですけれど・・・。

 身近な木の時間とか、どうして私はここにいるんだろうと
 思ったときに、両親がいて、そのまた両親がいてと思うと、
 すぐに千年や二千年は戻っていけますよね。
 そうやって、いろいろな時間を自分の気持ちの中に持つと、
 単に大急ぎでやったり、じゃまだから伐ってしまおうみたいには
 ならないでしょう。
 しかも技術は否定しないで生きていくという選択はできると
 思うのです。

 ですから私はみんなが時計の時間だけでなく、自然のなかに
 入っているさまざまな時間を感じて暮らして欲しい。
 それは、自分のなかに入っている時間でもあるわけですから、
 そういう複数の時間を、日常のなかでも感じ取るというのが、
 命を大切にするということの一つの具体的な方法ではないかと
 思っています。』


近年の反省に立ち、科学技術を人間や自然を破壊するのではない形に
変換していくことが求められています。
自然破壊とは外部の自然を壊すだけでなく、人間自身の内なる自然の
破壊でもあることに気づき、「人間が自然の一部である」という
基本を真ん中に置いた発展を
私たちは目指していかねばならないと思います。


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日曜日, 1月 04, 2009

「名こそ惜しけれの心に息子とふれる」-司馬遼太郎、石原靖久


新年あけましておめでとうございます

昨年末からの腰痛は回復し、すっかりよくなってきています。
年末年始は、自分と妻の両親・兄弟や家族8名で冬の北陸を
楽しんできました。
長野、岐阜、富山、新潟の4県をまわり、冬の年始にすっかり
身も心も浄化されてきました。

そして、今日は息子の6歳の誕生日。
心身とも健康に育ってくれていることに大きな感謝の気持ちです。

いよいよこの春からは小学校に入学。
社会に接する場がまた一つ広がります。
私は、息子が小学校に上がったら司馬遼太郎さんの
「21世紀に生きる君達へ」を読んで聞かせたいとかねてから
思っていました。

司馬さんは、小学生にあてたこの手紙の中で、
「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」
を持つことの大切さを語り、それらは訓練して
身につけるものだと言っています。

『その訓練とは、簡単なことである。
 例えば、友達がころぶ。
 ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、
 そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。』



作家の石原靖久さんは、この司馬さんの名文について
こう述べています。

『想像力とは、単純化してしまえば
 自分を見ているまなざしを感じることです。

 友達が転ぶ。
 平然としている自分がいます。
 しかし、それはまずいんじゃないか、
 なぜ手を差し伸べないんだと叱咤する自分もいます。
 他人がいようがいまいが、心の中にいる「もう一人の自分」が
 つねに自分を見ています。

 この「自分を見ている自分」を感じること。
 これこそが「名こそ惜しけれ」で育まれる自律です。

 自分という生身の人間は「名」を持っています。
 生身の自分はさまざまな欲望を持っているけれど、
 それを垂れ流してしまえば「名」まで汚れると考える。
 それが「名こそ惜しけれ」です。
 司馬文学の登場人物たちは、その一点で清々しいのです。

 司馬文学は、誰が「何をしたか」というより
 「どう生きたか」に重心があります。
 読み取るべきは”一人の人間としての生きざま”です。
 
 自分の名に誇りをもつこと、
 自己の人生にいさぎよい覚悟を抱くこと。

 いさぎよさも、清々しさも、勇気も、自立心も
 かつての日本人の説明原理になりえた「名こそ惜しけれ」の
 精神からしたたるようにして出てくるものでした。

 司馬さんは「言葉の正直さ」について
 こだわりを持っていました。
 どうも今の日本人にはそれが足りないのではないかと
 考えていました。
 国会で正論をぶつ政治家が、じつは自分自身その言葉を
 信じていないし、聞く国民も信じていない。
 すべてが茶番めいているのです。
 
 情報化社会を生きる子どもたちの目に映る大人の姿は、
 「あざやか」でも「さわやか」でもないのです。
 今、大人の値打ちはほぼ底値に近いのではないか。
 
 そういう大人が「心の教育」を語り、モラルを語り、
 果ては「日本人の心」や「愛国心」まで語るのです。
 うまくいくかどうか、ハードルはとても高いはずです。

 かつて田中直毅さんは「自分が最初に司馬さんから
 感得したのは、背筋を伸ばす、という人の生き方だった」
 と言いました。
 「名こそ惜しけれ」という言葉は、その背骨に流れる血液のような
 ものなのです。

 「背筋を伸ばす」という生き方を、背筋を伸びた大人が語る。
 これなら子どもにとってはわかりやすいはずです。
 背筋の伸びた大人はときどき暗がりに入って、
 人に言えないようなことに手を染めたり、つまみ食いをするような
 ことはしないからです。
 司馬作品に親しむということは、そういうことがわかるということ
 です。

 父と子が同じ目線で「読み」、そして語り合ううちに、
 背景におのずと「日本人とは何か」「大切にしたい心とは何か」
 という和音が快く横たわっていることに気づくはずです。』

   
 
司馬文学の底流を滔々と流れる日本人のモラルの根幹をなす
「名こそ惜しけれ」。
それこそが、目下の焦眉である子どもたちの「心の教育」
資するものではないでしょうか。

息子良篤のこれからの成長を楽しみに、
こちらも父として恥じぬよう背筋を伸ばすようにし、
この日記のような会話を父と子で紡いでいきたいと願うものです。


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