日曜日, 1月 04, 2009

「名こそ惜しけれの心に息子とふれる」-司馬遼太郎、石原靖久


新年あけましておめでとうございます

昨年末からの腰痛は回復し、すっかりよくなってきています。
年末年始は、自分と妻の両親・兄弟や家族8名で冬の北陸を
楽しんできました。
長野、岐阜、富山、新潟の4県をまわり、冬の年始にすっかり
身も心も浄化されてきました。

そして、今日は息子の6歳の誕生日。
心身とも健康に育ってくれていることに大きな感謝の気持ちです。

いよいよこの春からは小学校に入学。
社会に接する場がまた一つ広がります。
私は、息子が小学校に上がったら司馬遼太郎さんの
「21世紀に生きる君達へ」を読んで聞かせたいとかねてから
思っていました。

司馬さんは、小学生にあてたこの手紙の中で、
「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」
を持つことの大切さを語り、それらは訓練して
身につけるものだと言っています。

『その訓練とは、簡単なことである。
 例えば、友達がころぶ。
 ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、
 そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。』



作家の石原靖久さんは、この司馬さんの名文について
こう述べています。

『想像力とは、単純化してしまえば
 自分を見ているまなざしを感じることです。

 友達が転ぶ。
 平然としている自分がいます。
 しかし、それはまずいんじゃないか、
 なぜ手を差し伸べないんだと叱咤する自分もいます。
 他人がいようがいまいが、心の中にいる「もう一人の自分」が
 つねに自分を見ています。

 この「自分を見ている自分」を感じること。
 これこそが「名こそ惜しけれ」で育まれる自律です。

 自分という生身の人間は「名」を持っています。
 生身の自分はさまざまな欲望を持っているけれど、
 それを垂れ流してしまえば「名」まで汚れると考える。
 それが「名こそ惜しけれ」です。
 司馬文学の登場人物たちは、その一点で清々しいのです。

 司馬文学は、誰が「何をしたか」というより
 「どう生きたか」に重心があります。
 読み取るべきは”一人の人間としての生きざま”です。
 
 自分の名に誇りをもつこと、
 自己の人生にいさぎよい覚悟を抱くこと。

 いさぎよさも、清々しさも、勇気も、自立心も
 かつての日本人の説明原理になりえた「名こそ惜しけれ」の
 精神からしたたるようにして出てくるものでした。

 司馬さんは「言葉の正直さ」について
 こだわりを持っていました。
 どうも今の日本人にはそれが足りないのではないかと
 考えていました。
 国会で正論をぶつ政治家が、じつは自分自身その言葉を
 信じていないし、聞く国民も信じていない。
 すべてが茶番めいているのです。
 
 情報化社会を生きる子どもたちの目に映る大人の姿は、
 「あざやか」でも「さわやか」でもないのです。
 今、大人の値打ちはほぼ底値に近いのではないか。
 
 そういう大人が「心の教育」を語り、モラルを語り、
 果ては「日本人の心」や「愛国心」まで語るのです。
 うまくいくかどうか、ハードルはとても高いはずです。

 かつて田中直毅さんは「自分が最初に司馬さんから
 感得したのは、背筋を伸ばす、という人の生き方だった」
 と言いました。
 「名こそ惜しけれ」という言葉は、その背骨に流れる血液のような
 ものなのです。

 「背筋を伸ばす」という生き方を、背筋を伸びた大人が語る。
 これなら子どもにとってはわかりやすいはずです。
 背筋の伸びた大人はときどき暗がりに入って、
 人に言えないようなことに手を染めたり、つまみ食いをするような
 ことはしないからです。
 司馬作品に親しむということは、そういうことがわかるということ
 です。

 父と子が同じ目線で「読み」、そして語り合ううちに、
 背景におのずと「日本人とは何か」「大切にしたい心とは何か」
 という和音が快く横たわっていることに気づくはずです。』

   
 
司馬文学の底流を滔々と流れる日本人のモラルの根幹をなす
「名こそ惜しけれ」。
それこそが、目下の焦眉である子どもたちの「心の教育」
資するものではないでしょうか。

息子良篤のこれからの成長を楽しみに、
こちらも父として恥じぬよう背筋を伸ばすようにし、
この日記のような会話を父と子で紡いでいきたいと願うものです。


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