月曜日, 3月 30, 2009

「生涯に大きな宝ものを授けること」-服部祥子


大相撲春場所の千秋楽、白鵬が全勝で
10回目の優勝に花を添えました。
「心技体」の充実が感じられた今場所
で、これからの相撲道の精進にますます
期待がかかります。

先場所1月の優勝決定戦で、
白鵬が朝青龍に敗れた際、 6歳を
迎えた息子は大粒の悔し涙を
流していました。
2月に観戦した大相撲トーナメントで白鵬が優勝した時、
花道の上から声援を送ることができたと思い出しては
うれしそうに語る息子。

毎日帰宅連絡で電話をかけると、開口一番その日の
取組み結果を話す息子は、白鵬の優勝を心から喜んでおり、
こちらも嬉しい気持ちでいっぱいになりました。


 『 六つになった       
              A・A・ミルン

   一つのときは、
   なにもかもはじめてだった。

   二つのときは、
   ぼくは まるっきり しんまいだった。

   三つのとき、
   ぼくは やっと ぼくになった。  

   四つのとき、
   ぼくは おおきくなりたかった。

   五つのときには、
   なにからなにまで おもしろかった。

   今は六つで、
   ぼくは ありったけ おりこうです。

   だから、いつまでも 六つでいたいと
   ぼくは思います。  』

服部祥子さんは、この詩を紹介し、こう語っています。

『六つの子どもは人間の一員としての知性や情感や意志力の
基礎を相当堅固なものにしてきた。
 自分が「ありったけおりこう」だから
 「六つのままでいたい」という六歳児。
 彼は自分の存在や自分の持つ力に信頼を寄せ、明るく積極的に
 自己肯定をしているのである。

 自他への愛と信頼を積極的に育てるためには、
 豊かな世界に子どもを置いてやることが必要である。
 子どもを囲む人や物-
 洗濯をし、夕餉のごちそうを並べ、やさしい言葉でものをいう母、
 大きくて力強い父、親しい人々、家具や家庭で使っているもの、
 話される言葉、まわりに見える山や河、木々や花々、
 影や日の光等々-
 
 子どもをとりまく世界が豊かであればあるほど、
 子どもはその瑞々しい眼や耳や身体で見たり、聞いたり、
 感じ取るものが多い。

 A・A・ミルンの詩のように、子どもは年ごとに精神発達の
 階段を一歩ずつ昇っていくが、同時に人間関係をも深めていく。
 もちろん愛や信頼関係を確立するまでにはこれから先長い
 歳月が必要である。
 しかし幼き日に、自分及び他者への愛と信頼を積極的に
 育てようと親が努めることは、その子の生涯に大きな宝ものを
 授けることになると私は信じている。』

 
3年間楽しく通った幼稚園を無事卒園し、
今春4月から新1年生となる息子。
新しい環境の中で、良き出会いとそれによって培われる
人間に対する「基本的信頼感」を得るようにと願っています。

理屈でも何でもない、我が子を可愛いと思うこと。
我が子に触れて素直に喜び、自然の生命が満ち溢れるように
愛おしく感ずること。
妻と共にいつも息子への愛を感じ、人生の意義を学べています。


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月曜日, 3月 16, 2009

「混沌とした時代の中で」-星野道夫


夜、星野道夫さんの本を開く。

地球環境問題という正解のない
問いに対し、日々取り組み
前に進み続けようとする中で、
誰かの言葉に後押しされたい時、
この方向でいいんだよと
言ってほしい時、 彼の言葉はいつも
私の心を落ち着かせてくれます。

『混沌とした時代の中で、
 人間が抱えるさまざまな問題をつきつめてゆくと、
 私たちはある無力感におそわれる。
 それは正しいひとつの答えがみつからないからである。

 が、こうも思うのだ。
 正しい答えなど初めから存在しないのだと・・・
 そう考えると少しホッとする。

 正しい答えを出さなくてもよいというのは、
 なぜかホッとするものだ。

 しかし正しい答えは見つからなくても、
 その時代、時代で、
 より良い方向を模索してゆく責任はあるのだ。』
                  星野道夫 

そう、私たちには現在において
より良い方向を模索してゆく責任があるのですね。


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日曜日, 3月 08, 2009

「自然を思想することにより魂を取り戻す」ー鶴岡真弓


前の日記では、わが師C.W.ニコル氏の日本でのすばらしき出会いの一つを紹介しました。

ニコルさんは英国のウェールズ出身であり、ケルト民族の血が流れています。彼の桁外れに豊かな感性は、”多様性”を大事にしてきたことから生まれてきていると思います。
鶴岡真弓さんは、このケルト文化をやはり守り継いでいるアイルランドの人々の
自然観についてこう語っています。

『自然や自然環境について語るというのは、
 人間や世界を考え続けていくときの答えのない扉の鍵、
 「考えるきっかけ」のようなものではないでしょうか。

 歴史という人間の危うい経験を何とか役立て、
 私たちが忘れ去った宝物を見つけ出すきっかけにしたい、
 そう思います。
 自然に対する人間の想像力というものが希薄になってきている
 いまだからこそ、余計にその重要さを感じるんですね。

 自然や風土や風景というのは、正直なもので、
 その国民や民族の思想を目に見えるかたちで映し出してしまう
 鍵なのだと思います。

 戦後60年以上経って、いま、日本人の誰もが
 心の中で気づき始めているわけですが、
 戦後の日本人は、アメリカから授けられた民主主義や
 欧米の合理主義の中で生きてきました。

 しかし、その中で日本人の精神文化の中身は、
 得たものより失ったものがあまりにも大きいと思うのです。
 日本の歴史を通じて、もっとも自信のない日本人、
 つまり自然と風土の中に思想を持たない日本人になってしまった
 という落胆があります。

 いくら破壊されたとはいえ、
 まだまだ緑と水に覆われ囲まれているのが日本であって、
 子供のころに山野を駆け回っていたときに感じた
 あの自然というのは、
 超越的な恐ろしいものではなく、
 すぐ自分のそばにある親しみのある自然だったと思うのです。
 そういう環境の中で、日本人は自然を親しい神々と感じ
 敬ってきたのだと思います。
 
 つまり、日本人の神々というのは、
 自然のかそけき声や、風の微妙な肌合いを身近に感じるもので、
 その緻密さとか、微妙さといったものが、
 私たちの思想や文化の根源になっていると思います。


 しかし、そうした風土の思想を持つ日本に、戦後、
 アメリカという強力なプロテスタント国家の自然観が
 教条的に入ってきました。
 
 世の中の全ては、絶対不変の原理と法則によって美しく
 完璧に管理されている、
 自然もまた完璧に人間の英知と科学で統御されるものなのだ、
 という一神教の方法論が、明治以来日本に入り活用されてきた。

 特に戦後は、工場の汚水が自然を破壊したという
 物理的な問題以前に、
 いわば形而上学的に杭が打ち込まれ、
 それによって日本人の自然観は、わずか60年の間に
 大きく変容させられることになってしまいました。

 これは、悪いという意味ではなく、
 キリスト教社会では唯一絶対の「神」が精神生活から
 生産形態、自然までも統率する管制塔なのですが、
 日本において、
 この管制塔方式の「型」が真似された結果、
 それがむりやり学校とか家庭の日常の心情の次元でも、
 その型だけが教え込まれ、
 管理の形だけの民主主義とか、形だけの生活というものしか、
 手元に残らなくなってしまいました。
 
 もうそこには、親しい「自然」の山野を駆け巡ったときの、
 躍動する楽しい心も、アニミスティックな自然への敬いも
 忘却されてしまって何もありません。

 アメリカ人の自然観は、ディズニーランドの池であろうが、
 アンクル・トムの小屋の森であろうが、西部劇の荒野で
 あろうが、すべて彼らの「神=創造主」の管理の下で
 完璧に造られた、神の「完全性のユートピア」としての
 自然なんですね。

 それは、先住していた北米先住民の自然崇拝的自然とは
 まったく異なります。


 この60年の間に、なぜ、日本人が「魂」を失って
 しまったのか。

 それは、自分たちの手で自分たちの表象としての自然、
 環境を度外視して、西洋の借り物である爪先立った
 自然観の中で愚直に生きてきた結果です。
 
 「物理的に自然環境が変わってしまった」と嘆く前に、
 自分たちがしっかりと「自然を思想しているか」を
 自問しなければならないと思います。』


自然を思想するということは、自己の本性に気づき
近づくことにつながります。
名嘉睦稔さんは、そのことについてこんなヒントを与えています。

『私たち一人ひとりの中にある原初的な力
 -自然界(神)と同化するための畏敬の念や
  たくましい野生、深い感性や霊性-
 
 それらをもう一度思い起こし、
 自らの手でスイッチをオンにすることです。
 難しいことはありません。
 自らの奥にあるものを当たり前に認めれればいいのです。』



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