火曜日, 7月 14, 2009

「山高きが故に貴からず」-☆森のクマさん☆




今春から小学校に通うようになった
息子も今週が終われば夏休み。
週末から行く予定の屋久島に思い
を馳せて、楽しみにしています。

一学期の間に一度だけ参観日の日に息子の受けている授業
の様子を見ることがありました。
学年主任であるベテラン先生の落ち着いた、一人一人を
よく見ながら声をかけての授業内容は安心できるもので、
子ども達の受ける態度にもよくそのことが表れていました。
学級崩壊などとかく教育現場の荒廃もいわれる中で、
現場の先生の人間としての包容力が子どもを安心させて
いるのだろうと安心して帰ってきました。

かつて江戸時代に行われていた子どもの教育は、世界の
最高水準にあったといわれています。
元禄時代に来日したフランス人は、寺子屋に通う子ども達を見て
『日本人の子育て教育は世界の理想であり、とうてい
 外国人のおよぶところではない』
と驚嘆し、目を見張ったといいます。

当時の教育は、現代の学校教育で進めてきた進学や就職に
役立つという名声や富を得ることにつなげる「利の教育」ではなく、
「叡智」の重要さと学ぶことの必要性を教えるものでした。

「近思録」の本には、こうあります。
『学ぶ者はすべからくこれ実を務むべし、名に近づくことを
 要せずして方に是なり。
 名に近づくに意あるときは則ちこれ偽なり。
 大本すでに失す』
(学問の目的は本来、自分の能力や人格を磨くことにある。
 だとすれば、学問によって名声や利益を求めようとするのは
 本末転倒であり、本物の学問ではない)
 
ホイットマンは、かつての日本人の顔つきを見て
『考えぶかげな黙想と真摯な魂と輝く目』と評したといいます。
それは学校においても家庭においても、自己の品格を磨く
修身教育が行われた自然の結果であったのでしょう。

品格を培養するのに必要なこと。
それは自己の鍛錬であり、身を慎むという修養の精神をもつこと。
いくら知識を持っていたところで、あるいは雄弁であったところで、
それは二の次です。
そしてこの「自己を鍛える」教育は、武士階層のみならず
一般庶民の間でも行われていたのです。

翻って我が身を思うと、自己の鍛錬において先人に遙か及ばないと
深く自省するばかり。
実利、功利という「利」「得」が重視されてきた現代社会の中での
教育の盲点を感じます。


深田久弥氏の名著「日本百名山」。
深田氏は、単に山が高いというだけで名山を選ぶということは
しませんでした。
選定の基準の第一に「山の品格」を置いたといいます。

『高さで合格しても、凡常な山は採らない。
 厳しさか強さか美しさか、
 何か人を打ってくるもののない山は採らない。
 人間にも人品の高下があるように、
 山にもそれがある。
 人格ならぬ山格のある山でなければならない』


かつての日本で重視されてきた教育。
それは、人間の品格を高めることでした。
そして、明らかにそれとわかる思慮、知性、雄弁のたぐいは
第二義的なものとされたのです。

いつでも穏やかで礼儀正しく、周囲を楽しませる教養があり、
相手に対する思いやりを決して忘れない。
威張ったり自慢したりするようなことはなく、
好奇心を忘れない。
このような人こそ品格をもって、どこの場に出ても恥ずかしくない
優美な人間なのでしょう。

『山高きが故に貴からず
 樹あるをもって貴しとなす
 人肥えたるが故に貴からず
 智あるをもって貴しと為す
 人学ばざれば智なし
 智なき者は愚人なり』
という先人の言葉を深くかみしめたいですね。


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水曜日, 7月 01, 2009

「百億の昼と千億の夜と阿修羅」-光瀬龍


先日終了した「国宝 阿修羅展」。

行列が苦手な私は、見に
行きませんでしたが、子どもの頃
に写真で見た阿修羅の
少女とも少年ともとれる姿と
愁いと喜びを併せ持つ表情の
清らかさに、何か不思議な好奇心を感じたことを覚えています。

かつて私は小学6年の時に、1冊のSF小説の虜になりました。
その題名は百億の昼と千億の夜』。
SF界の巨星、光瀬龍氏が詩情豊かに、時の流れの膨大さと非常さ、
その中での人間の営みを謳いあげた名作。
現在でも強く惹かれる作品です。

『寄せては返し  寄せては返し  返しては寄せる波』
という独特の静謐さと淋しさを湛えた文体は、静かに深く心に
沁みこみ、読後に本を閉じた後の気持ちは、
何とも言い表しようのない物悲しさ、透明な悲哀といった
寂寥の思いに陥るのです。

萩尾望都氏によりマンガ化もされましたが、
人類の永遠の命題である
『人はどこから来てどこへ行くのか』『生とは何か』『永遠とは』
を問いかける内容に、12歳の私はしばらく真剣に考えていました。
今は懐かしい思い出です。

先日亡くなられた中島梓さんは、この作品を表す言葉は
『無常感』であるといいました。
そして、破滅と永遠と、そして喪失の、悲しく、透明な、
しかしどこかしら不思議に甘く快い静寂をたたえている、
世界でいちばん美しく、悲しいSF小説のひとつだと評していました。

古来からある阿修羅の伝説の一つに、帝釈天を相手に
勝てぬ戦いを永遠に続けているというのがありますが、
光瀬氏は、興福寺の阿修羅像は戦いの虚無の中で「なぜ」
自らに問いかけているのだといいました。

『神と戦うのか。』
『おお、そうとも。 
 私は相手がなに者であろうと戦ってやる。
 このわたしの住む世界を滅ぼそうとする者があるのなら
 それが神であろうと戦ってやる!』

『百億の昼と千億の夜』に登場するあしゅらおうは、”シ”(死)と
いう生命が、時間が、必ず出会う運命の存在である敵と戦っています。

『・・・・転輪王・・・・
 この世に現れた”シ”とはいったいなんだ・・・・その正体は?』

『彼らは彼岸に住む超越者だ』

『彼岸とは・・・・またはるかな言葉だな
 それはこの世の者にはたどり着けぬ宇宙の果てか』

『阿修羅、宇宙の果てとはなんだ』

『宇宙の膨張速度が高速に達した所に果てがある・・・・
 その時、宇宙全体の質量のため空間が閉ざされ、
 一個の球体の内部を構成する・・・・』

『では阿修羅、その球の外とは?
 閉ざされた内部ということは、さらに外があるということだ
 しかも無限に

 こう考えてくれ、阿修羅
 時もまた同じ

 この内の世界では二千億年の昔
 原初の時点から時は流れ始め
 二千億年のかなたでやむ

 しかし、それすら外の世界の無限の広がりに比べれば
 超時間のほんの切片だ・・・・』

『転輪王、”シ”とは二千億年すら一片となす
 無限の時を支配する超越者のことか?』

『・・・・阿修羅よ・・・・
 すべての時にも、人の心にも
 願いは常にあった

 深い海から生まれた生命にも
 滅びゆく都市にも
 この宇宙にも

 願いとは・・・・
 何だったのだろうか?

 神・・・・超越者にとって
 われわれや宇宙はなんだったのか?

 われわれの・・・・存在の意味とは?

 この世界の外に
 さらに大きな世界の変転があり
 さらにその世界の外に世界が
 そしてまたその外にも

 さらに永遠に世界がつづくのなら

 わたしの戦いは
 いつ終わるのだ・・・・?』

『すでに還る道は無い
 また新たなる
 百億と千億の日々が始まる』

無常と久遠という壮大な世界を
宙空にかかげた3対の腕に抱く阿修羅像。
いつの日か対面したいと願っています。

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